店主です。
私が「偉大なる」大坊勝次氏とお会いしてお話ししたのは、一度きりしかありません。おそらく、その数が増えることはないと思います。場所は同じ県内の某自家焙煎珈琲店でした。皆、氏を写真に撮っているような空気感で、どちらかというと呼ばれたわけでもない場面で、私は白けていました。
「あのひとたちは、何を言っているのですか? コーヒーは、コーヒーの味しかしないのに」
コーヒーのテースティングの場面で、大坊氏がこのようなことを言いました。いわゆる、テースティング用語が氾濫していたような場を、諫めるような発言だったと記憶しています。私は年配のCQIの人間に、この話をしました。彼の感想は、大坊氏は決してリアリズムではない、という発言によってまとめられていました。
大坊氏は、当該場面でコーヒーの味のことを、「17歳の女の子が笑った味」「雨上がりの青空の味」、などと言いました。指摘はまっとうかもしれません。しかし、私が長い時間をかけて、この時の記憶を反芻していたのは、必ずしもひとつの角度から見えた物事に対してではありませんでした。あらゆる場面において、誰かに聞いてもらうわけでもなく、「レアリズムこそがパロディであるってことが忘れられている」(蓮實重彦)という言葉を、私は苦々しく一人、口にするしかなかったのです。立場をこえて、時間をこえて、そのことはいまもあたまを揺さぶられるような感覚で、相対している何かです。
言葉が現実の似姿たりえないというのと同じ意味で、テースティング用語は、決してコーヒーの似姿になることはできない。そんな当たり前のことを基本とするとき、私ははいつも明示しえないものを明示しなければならないようなひどい徒労感を覚えたものです。そしてこのことに関しては、伝わる人と伝わらない人が、色をつけたようにはっきりとわかれたのです。
「リアリズムが物語のパロディだということは、リアリズムが引用であるということです。しかもそのことを忘れさせるのがリアリズムなんだけれど」(『情報・コミュニケーション空間の政治学』柄谷行人)
私はコーヒーの世界にあって、たとえどれだけ「偉い人」でも、この「風刺」(パロディ)と「似姿」を履き違えている人は、まったく信用しません。テースティング用語が、コーヒーの「似姿」であると信仰する人たちを、まったく信用しません。「風刺」がないのです。そしてこのことは、知的であるかそうでないかということとはまるで違う判別要素だと、何度も考えながら思います。