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コーヒーと難しさ

Posted: 2023.09.14 Category: ブログ

コーヒーと難しさイメージ1

店主です。

ついこの頃大きなコーヒー生豆の商社から、いささかいぶかしさを含んだ声色の電話を受け取りました。自分ではまるで気がついていなかったのですが、コーヒー生豆の購買の頻度に関して、販売側に職業的な反応が惹起してしまう程度にムラが生じていたようです。コーヒー生豆の購入頻度に関して、わたしは時々難しく考えてしまうことがあるようです。味に関してはそれほど難しく考えることがないので、これは個人における性格だとか、性質の問題かもしれませんが。。味わいに関して言えば、うちにはサンプルロースターと呼ばれる機械がありません。かつてうちのコーヒー焙煎のやり方について、「あいつのところにはサンプルロースターがない」というふうに蔑されたことがあったのですが、わたしにはサンプルロースターの使い方がよくわかりません。そもそも持っていないので個別の操作方法がわからないということもあるのですが、それ以上に自分がメインで使う釜のサイズで焼いていないコーヒー豆を飲んで味を理解し、それをうまく購入に活かすという感覚がよくわかりません。。もっともこれはわたしがわからないというだけで、そのことに意味がないというものではないことは、ことわっておく必要もないことです。

感覚を活かすということであれば、たとえば、ことばはとても役に立ちます。仮にとても役に立つとはいえないとしても、わたし以外の人のすべてに役に立つとは言えないとしても、いくらかは役に立ちます。少なくともわたし個人には、サンプルロースターを使って味わいを確かめるよりも、海外のコーヒー農園に行くことを繰り返す(金銭的にも、時間的にも、体力的にも余裕がないというところもありますが)ことよりも、いくらかは役に立ちます。効果的にコーヒー生豆を買う方法として、わたしはニ、三の商社のカッパーと仲良くなるなどして、その上で彼ら彼女らがどういう「ことば」で、コーヒーの素材としての味わいを言おうとするかに注目してみたりします。そういうことを気にしておくと、とても役に立つことがあるのです。たとえば、わたしは自分のお店の冠ブレンドにエチオピアのイルガチェフを、その先のエリアを睨んだりなどしながらいくつかのやり方で採用しているのですが、イルガチェフというのは、ことばにするにはあまりに繊細なコーヒーです。あらわれてくる酸味にしても、ある人に言わせればシトリックなものが、ある人に言わせれば同じ柑橘系でもレモングラスのような、草木系のフレーバーに寄るコメントが出たりします。実際にこれらはある程度まで焼き込むと、完成したコーヒー液としてはあまりにも差が出てくるものです。わたしが信頼できる商社のカッパーとのことばのやり取りで面白いと思うのは、ブラックベリーだとか、ラクティックだとか、なんとかだとかいうよりも、たんにあの人があのタイミングで「甘い」ということばを使ったコーヒーは信頼できるというようなことが、相互理解のうちにだんだん生まれてくるところです。こういう感覚の共有は、とても面白いものです。こういう感覚が生き生きしてくると、いつのまにか色々なものが不要になってきます。それこそサンプルなんとかだという機械は、わたしにとっては不要となってきます。こういう意味において、わたしは購入前のコーヒーの味わいに関しては、あまり難しく考えることがありません。しかし、購入の頻度というものに関して言えば、わたしはいつも、必要以上に頭を捻ります。それはたとえば在庫回転率だとか、棚卸資産残高だとか、インベントリーリターンだとかいうものに意識が引きずられているからなのかもしれません。ある同業人からは、どうして君のところはいつもコーヒー生豆在庫がすっからかんなの、と言われたりもしますが。。おそらくわたしにとってのコーヒーの難しさは、そういうところにあらわれているのかもしれません。しかし、それが「よい」のか「わるい」のかはよくわかりません。なにが言いたいのかというと、コーヒーに関して難しく考えすぎたり、あまりにも単純に考えたりというのは、人によって差があり過ぎるのにあまり顧みられないポイントであるということ、そしてそういう顧みられない点が、物事の進み行きの成否をわけているように思えることです。

『コーヒーについて、よいか悪いかを考えず、コーヒーを心と身体の全部で行うとき、それがコーヒーです。私たちにとって問題となるのは、コーヒーがときに、あまりにも複雑であり、ときに、答えを出すには非常に単純に過ぎることです。しかし、コーヒーを推しはかろうとし、コーヒーの複雑さを単純化しようとすると、それはあなたにとって問題となるのです。問題を抱えるかどうか、それはあなたの姿勢、あなたの理解にかかっています。真実の持つ、この二重の逆説的な性質のため、あなたが大いなる心を持っているなら、理解に関してなんの問題もありえないのです』

たとえばわたしはこういう文章の、「真実の持つ二重の逆説的な性質」ということばに打ちのめされたりします。コーヒーはたしかに、「あまりにも複雑であり」「ときに、答えを出すには非常に単純に過ぎる」なにかです。コーヒーについてなにかを言おうとしたところで、究極、それ以上のことは言えません。しかし、ひとは何故か複雑さをごくあいまいなかたちで単純化しようとしたり、その反対に単純なことがらに限ってやたら難しくしようとしたりします。なぜかそうしてしまうのです。本来受け取るのは「あまりにも複雑」であるなにかのことと、「答えを出すには単純過ぎる」というなにかの部分、二重となっているこれらを、そのままのかたちで受け取れば良いはずなのですが、いったいなぜ(自分もふくめて)こんな簡単なこと、こんな単純なことができないのでしょうか。商売だとか、趣味性だとか、センスだとか、熱意だとか、そういう種類のいくつかのノイズがじゃまをするからでしょうか。

しかし、「真実の二重の逆説性」というのは、かならずしもコーヒーにとどまる内容ではありません。むしろ、思想史だとかが転びながら何度も見てきた、認識論の根幹に肉薄する問題なのです。わたしはちかごろ、ずっとグラマトロジーについて(デリダ)を読んでいたのですが、「真実の持つ二重の逆説性」などということばはどこにも見つかりませんでした。わたしは、だから、ほおづえをつきたいような気持ちです。というか、引用の文章は自分が勝手にある単語を「コーヒー」ということばに置き換えていますが、本当はコーヒーについて語ったものでも何でもありません。これはまったく、コーヒーとは関係のない文章なのです。しかし、そういうものがあからさまになにかをあらわして見えるということはよくあることです。少なくとも、わたしにとってはそうなのです。

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