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コーヒーの仕事に従事している時、私が考えている事

Posted: 2020.06.29 Category: ブログ

コーヒーの仕事に従事している時、私が考えている事イメージ1

店主です。


昨今さるお方の「御来訪」や、久方振りに招待されたコーヒー教室の仕事をいくつかこなしたあとで、「コーヒー」と「仕事」(※「コーヒーの仕事」、ではない)について、様々な思いを巡らせる機会がありました。職業的にコーヒーに従事することについて。


例えば、県外などに呼ばれてコーヒー教室をするとき、わたしはわたしのフィールド(そんなものが存在するかは謎ですが)を離れており、場面によってはコーヒーを職業的に捉えているわけでは決してない人の、過多な情熱に相対することがあります。ひかえめにいってそれは、すごいことです。わたしは私の記憶が正しければ(それはかなりあやしい部分でもありますが)、コーヒーに対して、現在まであまり職業的な形以外での関わりを持ってきませんでした。つまり、職業的に従事すること以外の関係性を、いまだにコーヒーに対してほとんど見つけられていないのです。それはアダチという場所以外に対してもそうなのかもしれませんが、そのことは少し、怖いことです。そういうわけだからか、コーヒーに対して、無根拠でその関係性を生きられる人に、根本的な尊敬の気持ちがあります。根本的な尊敬、という言葉を書くと、いつも大江健三郎の言った「根本的な尊敬の裏側に根本的な不審がある」というニュアンスの言葉を思い出しますが、それはその言葉に共感するというよりは、ただただ思い出すというものです。たとえば、ゴダールは映画の仕事に従事するときの自分を、次のように書いています。


『(映画を仕事にするためには)、映画のごく一部分を演出する必要があります。したがって、まずそれを探し出さなければなりません。それにまた、映画のそのごく一部分をさがすという行為を演出する必要もあります。つまり、多くの小さな断片を演出し、それらをどのように探し出したかを語ったり、《われわれはこれこらの方向でさがした》と言ったりしなければなりません。そしてそうしたことをしているうちに突然、試験のときのように、自分はそれこれの小さな断片に興味をひかれるということや、自分がその断片をほかのある断片と関係づけているということに気づくことになるのです。あるいはまた、自分がそれによって映画史のごく一部分をつくっているということに気づくことになるのです。でもそうしたことをするためには、映画の見取り図が必要です。それにまた、それらを演出したり分析したりする手段が必要です。さらにまた、そうしたことができるだけの知的能力が必要です。そうやってつくられる映画の歴史も、結局は痕跡のようなものでしかないでしょう。。。映画史をつくることさえできないという、悔しさのようなものでしかないでしょう。わたしは、そうした痕跡を見ようとしているのです』(ゴダール『映画史』)


これほど上手く言えることは自分のくちからはないですが、ゴダールが「映画」と言った箇所を「コーヒー」という言葉に変えてみると、私もほとんど同じ気持ちだということがわかります。ただ、何か言いようのない、そしてよく見ていないと消えてしまうような種類の悔しさだけ、時々覚えています。


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