店主です。
就寝時のことでした。
ここしばらく気の抜けたサイダーのような日々を過ごしていましたが、知らないうちにあらわれた炭酸の弾けるような出来事を思い出して、ハッとして少し目が覚めてしまったのです。そうこうしていたら鼻水が止まらなくなってしまって、ティッシュペーパーを丸めて両方の鼻に突っ込んでいたら今度は息ができなくなり、別の意味で目が覚めてしまいます。それでもわずかに、涙目で鼻水を垂らしているあいだに(なぜか)思い出したことがありました。あるイスラエルの歴史学者が、1762年に刊行され、ジュネーブの広場で公開的に燃焼されたあるフランス語の書物について、とても面白いことをくちにしていたのです。薄ぼんやりとした意識のなか、そのことを思い出しました。それはこういうものです。
「この本(『エミール』)は、18世紀以降の人類の聖書のようなものである」。『エミール』という著作に関して、わたしの記憶が正しければ、これと同じようなことばは『読むことのアレゴリー』という本の中でもなにかがくちにされていた気がします。あのきわだった魅力のある本の中にも、なにか違う書き方で、少しだけ書いてあった気がします。そのことに関して、わたし自身もたしか、どこかになにかを書いた記憶もあります。しかし『読むことのアレゴリー』という本の著者は、本来ルソーについて書くことに関して、非常に大きなためらいをみせていました。そのためらいは、勘違いという可能性もおおいにありますが、自分にはきついほどによくわかるものです。それは理想についてなにかをくちにすることだとか、希望についてなにかをくちにすることだとかにいくぶんか関わっています。『エミール』の著者が(あの口角泡を飛ばすようなエクリチュールで)くちにしていたのは、理想とか希望とかがもっとも大切なものであり、人々は自分が思うよう生きなければならない、というものでした。この考え方は強力なものです。この考え方が「18世紀以降、聖書のように」(ハラリ)どれほど人々の生き方を固定化し、分断してきたかは、もはや誰にも正確な構図など描き出しようがないと思えるほどです。これは本当にものすごいことなのです。。このことで、人々は資本性経済というシステムを作ったり、大量虐殺の科学兵器を作ったり、社長が愛人を作ったり、詐欺師がNPO法人を作ったりしたのです。しかし、そういうものとは別の観点で、わたしはかつてこのあたりのことについて、たとえば純粋理性批判だとか、テクノロジーだとか(いう概念)から、ものごとを考えてみようとしたことがありました。結局それはコーヒーのしょぼい抽出器具に向けた当て擦りで終わってしまって、ほっぺたが赤くなってしまった記憶ですが。。しかし、わたしが物事を考えるときにとりわけ参照しているあるフランス人の映画作家は、希望だとか理想だとかいうものの見方や考え方はたんに歴史的な段階を経てあらわれてきたものであることを、繰り返し冷静に説いています。その姿はかつてアテナイの広場で、(ジュネーブの広場で燃焼された書物の反対方向からの同じような意味で)、お湯を飲むように毒を飲まされて死んでしまったある古い哲学者の姿に重なって見えてます。それらの姿には、共通した低いつぶやきのような姿、あるいは背中の見せる姿があります、それはつまり、人は人生で自分のしたいことをするのではなく、出来ることややるべきことをするのだというように。
少なくとも、「あの政治的に混乱した」「パラノイア的な仕草の」(ド・マン)『エミール』の著者の登場するまで、ある特定の人間はともかくとして、市井のひとびとは自分に課せられた役割、自分が社会に果たす役割をこなしていただけでした。人々というのは、そういうものでした。それは決して(泣きながら)「あたしの感情はどうなるんですかっ!」などということを言うものではなかったし、くちにしたところでそれがなにかだったということもありませんでした。しかし『サピエンス全史』の著者が言うように、これらのなにかは一度あわられるともはやそれ以前のことをそのファクターを外して見ることができないほど強力なものとして機能してしまったのです。ただ、(わたしは思うのですが)、人がもし本来的に希望だとか理想だとかを求めて生きるのであれば、ソクラテスはああいうふうに死ななかったのではないでしょうか? たとえば彼が(毒をあおってでも)本を出さなかった理由について、刮目するような研ぎ澄まされた知見を披瀝したことは、それが当人にとって理想であるとかないとかとは別の、人間というものに対する深く裏打ちされた洞察からの帰結にみえます。あるいは、わたしはこう思うのです。人々が希望だとか理想だとかのみを求めて生きているのであれば、コーヒーなどという飲み物は、これほど嗜好品飲料として広く世界に飲まれたのでしょうか? ルソー以降、市井にはなにか美味しいものでもくちにしたかのように、理想や希望を語る「薄い人々」(プルースト)の姿がありました。しかしそれらの一方的な主張は、(ポール・ド・マンが指摘したように)、集団煽動の作用(政治性)や、あるしゅのパラノイアに起因しています。そしてなにかしか容認できない、ひとつの立場以外に想像ができない物事のあり方・あらわれ方というのは、とても危険なことなのです。
『これ、あまり言いたくないことだけれど、コーヒーという飲み物は人間にとって本当に美味しい飲み物なのか、どっかで痩せ我慢をして美味しいと思っている奴もいるだろうって思ってます』(大坊勝治氏)
こういうことばには、なにかがあります。真実のなにかがあります。。ソクラテスが飲んだなにかです。わたしはたまたま「コーヒー」というもののことについて、考えたり(考えもしなかったり)していますが、それはただそのことだけにとどまるものではなく、ソクラテスがアテナイの広場であおって死んだものについて考えることでもあるのです。ただの気のせいかもしれませんが、両鼻に丸めたティッシュペーパーを突っ込んだまま、真夜中にひとりで考えたのはそんなことです。