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プロヴィンシャルなものと思考

Posted: 2020.08.20 Category: ブログ

プロヴィンシャルなものと思考イメージ1

店主です。


先日『小森の部屋』を開催するにあたって、二冊の本の読み返しをしようとしていました。ワークショップというと実に大袈裟さですが、一般に開かれた形で『珈琲大全』(田口護氏)と、『コーヒー「こつ」の科学』(石脇智広氏)の二冊の再読をしようと思っていたのです。このことは、個人的な感想以上に、どこまで実践できたかはよくわかりません。とくに石脇智広氏の『コーヒー「こつ」の科学』は、いまだに秘密の多い、謎めいた本です。それは一般的な意味合いにおける「謎」とはまた違っているのが、物事を二重の意味でややこしくしています。


たとえば、コーヒーの世界(だけに限らないですが)で物事が比較される時、「諸条件が完璧に揃うわけがないのに、論旨にとって重要な前提だけが固守される」という状態があると思います。これは、「謎」を発生させる装置でもあると(私は)思っているのですが、コーヒーの世界において、これらに対する「無視」が商売的に実践されている場合の方が(個人的には)よほど気持ちが良く、そのあたりの好悪は、私の仕事のやり方のどこかにあらわれているかもしれません。(全然そうでもないかもしれませんが)。焙煎機の操作子があたえる香味に関する議論しかり、同一条件下でのティスティングの議論しかり。。析出していけばきりがありませんが、論旨にとってぎりぎりの重要な前提だけが固守される出来事は、いつも私の目の前にありました。そしてそのことに、都度自分自身の態度が試されていたような気もするのです。それは、「精妙さ」が問われているということでもありました。


『創意とは、自分に期待されるものとはいくぶん違った前提を固守するときに用いる精妙さと関係がある』(グレン・グールド)


私はグレン・グールドがとても好きですが、それはおそらくこのような言葉が好きなのだという意味とほとんど同じものとして捉えています。そして石脇智広氏の「文章」も好きですが、その好きは同様の意味で、この「創意と精妙さ」の部分をめぐっているのだと思います。スペシャルティーコーヒーという概念も(吟味少な目の)「創意」(の総体)かもしれませんが、それに対する「正しく肯定的な文章」も、「正しく批判的な文章」も、わたしにはどこかよくわからないものです。もっともよくわからないのが、なぜそれらはいつも、素材集めの趣味性と洗練度を中心に論説が成立するのかという点です。調理工程(文章化)が綺麗に抜け落ちて見える本は、どれだけ「吟味的」であっても、それ自体がスペシャルティーコーヒー(の駄目な部分)とまったく何も違っていません。


乗り越え不可能に思える基礎性の高い本質的な文章らのあとで「概説」以外コーヒーの「文章」は書けるのか。素材集めの趣味性と洗練度以外、実践はあるのか。これは本来コーヒーと文献という概念をこえて、大きなものです。『コーヒー「こつ」の科学』には、メタフォリカルな精妙さがあります。私はそこに、個人的な希望を感じます。


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