店主です。
連載『素描集』が上梓されてきました。
そんな折、なぜか「コーヒー業界」(それが何なのかよくわかりませんが)の「大物」から連絡があり、「読ませてよ」と言われて計らったり、色々ちょこまかしていました。そしてその中にいたわけではない「コーヒー稼業」の先輩から、「読んだよ」の声とともに、ある方面からの文体の影響を指摘されて、小さく笑ってしまいました。
わたしは連載期間中、ずっとヴァレリーを読んでいました。そして、相変わらずデリダと、そしてプルーストのおそろしく長い書き物を、ずいぶん久しぶりに紐解いていたのです。もっとも、わたしは学生時代「一応」文学部でしたが、(十九世紀市民小説に代表される)所謂仏文学は、ほとんど人並みにしか読んでいませんでした。(バルザックはドストエフスキーがデビュー作の前にしつこく翻訳していたので、いくらか意識して読んでいましたが。。)
そんなこんなで、わたしは(ある人からいわせれば)いったん「切断の時」を迎えたというわけなのですが、相変わらず読んでいるものと日常を含めて、じっさいの気分は「切断」とはまるで正反対だったのです。
そして、それとは別のギクッとする相手に、時を同じくして「今後の展望」を予言された時も、その気分は変わりませんでした。
『人生はある物事を計画しているときに、それとは別の形で切り開かれていくものだ』(ジョン・レノン)
それから少しだけ時が経ち、ものを書くことであまり調子に乗らない方が良いという予言が、いまわたしの中で「別の形」になりかけています。そのものごとは来月くらいから少しずつ動くので、いまはたしかに(気分とは別に)、状態はほとんど「白紙」のようなものです。しかし、予言はいつも非=予言的なものを含んでいるのでしょうが。。
最近ずっと考えていたのは、そんなことでした。