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何度目かの気分

Posted: 2022.07.05 Category: ブログ Comment: (0)

何度目かの気分イメージ1

店主です。


此程あるコーヒーの先輩に絡んで、『(本当はそうでもないというふうにわたしは思うのですけども)、本当にアートが好きなんですか?』と、(あまりにカジュアルに) きわどいものを尋ねる機会 opportunity がありました。それに対する返しとして、わたしはわたしがくちにした「アート」の箇所に、(わたしにとって)「哲学」ということばをあてられた形で、まったく同じ種類の返すことばを見たのです。いまから思えば笑い話ですが、それは、そういう時間でした。なんというか、思い出したら笑ってしまうような時間でした。


『時間は形を変えることはあっても、本質を変えることはありません。アリストテレスからルソーまで、二千年もの間、哲学は人間の性質は「知ろう」とすることであり、知ることは善であることを確認してきました』(ブルネロ・クチネリ)


そんなことばのやりとりののちのことでした。わたしはブルネロ・クチネリが哲学史に触れたこれらの言及を確かめるように読むまで、まるでそのことに気がつかなかったのですが、ジャック・デリダの『グラマトロジー』が、ソクラテスからはじまり、ルソーで終わっていることを強烈に意識したのです。哲学に対して、通史的にのぞんだわけでもないデリダが、あの書物の中で描いた哲学的形式がそのような形になっていることと、クチネリがギリシア哲学からの認識論を、(あきらかに意図的に)「ルソー」で終えていることは、まったく無関係であるとは思えない何かです。もちろん、はじまりに据えた同じギリシア哲学に対して、デリダがソクラテスという固有名詞を、クチネリがアリストテレスという固有名詞を持って来ていることは、別の稿を待つような種類の言及になろうかとは思います。この差異は、それほど微細なものではありません。無視できるほどわずかなものではありません。マルクスが試論した、デモクリトスとヘラクレイトスの差異と同様、簡単に無視できるほどわずかなものではありません。しかし、わたしはむしろルソーに対しては最初から誤謬のようなものしか感じられなかったので、一体どうしてデリダがまともに付き合っているのか、そのことがよくわかりませんでした。これは、長くグラマトロジーを読んでいるうちにあって、ひとつの謎でした。わたしはこれらの一連の内容に関する出来事として、『ジャック・デリダの消しゴム』というタイトルで何某か書こうとこころみましたが、あまりきちんとした形になりませんでした。アンヌ・デュフールマンテルのデリダ論の素晴らしさに加えて、そこには、マルセル・プルーストへの記述もありましたが、そして、それからほどなくして、あらためて紐解いたまったくあらたな書籍の中に、デリダと、クチネリと、わたしの思考の三点を繋ぐ結節点が隠されているところを見つけたのです。


『知性が非常に永い時間をかけて作り出したものは、誤謬以外の何ものでもなく、ずっと後にいたってはじめて、認識の最も無力な形式として、真理が登場したに過ぎない』(『赤の誘惑』)


これは、ニーチェの引用です。そして、ここで言われる「真理」そのものがニーチェです。デリダは、(『グラマトロジー』の中で)、むしろそれを直接言わないために、ソクラテスをはじまりに置き、ルソーで筆を止めていました。では、ブルネロ・クチネリはどうでしょうか。「ルソー」より先の認識論に(あえて完全に)触れていない彼が、そののちの「引用箇所」を、ドストエフスキーやトルストイに譲っていることが、わたしにはとても興味深いのです。それはつまり、「小説」なのです。


話がまるで変わってしまいますが、昨今わたしはある箇所で、ある人に自分の書き物を紹介される形に合わせて、急いで単語を書き換えたことがありました。そこには、「機会」opportunity ということばが置かれていたのですが、わたしはそれを急ぎで「機械」mechanism ということばに変えました。意味としていえば、後者の方があっていました。しかし、わたしが言いたいと思っていたことは、辛辣な出来事に関しての、mechanism ではなくopportunity の方だったのです。それは、本当にそういうものだったのです。そこには、おそらくデリダがルソーについてこだわったことと、クチネリが、ルソーの先に哲学的な意味で「人間の認識」を置かなかったこと、(そして、その先に彼はむしろドストエフスキーやトルストイを置いたこと)に、密接に関わりがあるような気がするものです。それは、つまり、「誤謬」との関わり方です。


わたしは、このあたりのことをどう言えばいいのか、どう考えればいいのか、たぶん数年ぐらい同じことを考えていました。そして、ずっとどこかに、それが見え隠れするようなことを書いていると思います。ある人からは、「幸せ」なのだと言われました。しかし、自分にはそれがまったくわかりません。本当にそうなのでしょうか。自分ではよくわかりません。なにひとつわからないまま、今日もコーヒーを焼いたり、コーヒーを淹れたりする一日が過ぎていきます。


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