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定義について思うこと

Posted: 2021.10.02 Category: ブログ Comment: (0)

定義について思うことイメージ1

店主です。


コーヒーの仕事をする中で折に触れてわたしが意識している人のひとりに、韓国の金奈怜氏がいるのですが、彼女が韓国における新しいスペシャルティコーヒーの定義に関する文献(韓国語)をわたしに(丁寧に)翻訳して渡してくれました。これが、(複雑な意味で)良い資料でした。


一部の経済的観点から見ると、韓国という国は日本のコーヒーの先を行っている(と、わたしには思われる)ところがあります。そういう観点で見ると、日本で途切れたままの何かの概念が、韓国でコンステンシー(継続性/粘稠性)を見せているのは、面白い話です。いわく『従来のスペシャルティコーヒーの定義は曖昧なもので、焦点をあわせて新しく定義すると、その属性とは感覚的な属性と否感覚的なものがあり、感覚的な属性は我々が感じている味になる。否感覚的な属性は高度、市場、産地、農園、品質、これらが品評会でカッピング点数とオークションの取引価格に影響される。つまり単なる味だけでスペシャルティコーヒーを区分するのではなくて、農園、産地に期待できる非感覚的な属性も無視できない』。


金氏は秀でているので、上記の内容に疑義を唱えていました。「例えば、日本の珈琲でいえば、大坊勝次氏はコマーシャルコーヒーでも十分スペシャルティコーヒー以上の価値を作ります。それがスペシャルティコーヒーじゃないかと私は思いますね」。


かなりの部分で得心しながら、わたしはもうひとつ別のことを考えていました。少なくともこの話題について、わたしの前には、いくつかの態度があるような気がします。まずスペシャルティーコーヒーのことを実態がないと言って断罪することと、あるいは盲信すること、そういった相反するもののふたつがあります。そして、「業界は、(商売的に有利になるように)定義の無さを楽しんでいる」(田口護氏)ということがあります。さらに言うと、隣国によってコンステンシーが試されている、更新される定義の(あるしゅの)丁寧な理論化の問題があります。


『私には、ものごとを名づけることにどのような利点があるのかわかりません。人々は自分の便宜のために、ものごとに名前をつけています。そうよばなければならない理由はなにもないのです』(『映画史』ゴダール)


わたしの場合はある場面で人からこのようなことを言われて、とても困った事がありました。「スペシャルティーコーヒーはある定義のことだというのはわかるが、その言葉の登場以前に、スペシャルティーコーヒーはどこにあったのか」、というような----本当はもっと、かなり込み入った言い方だったと記憶していますが----要約するとそういうことを言われてとても困ったのです。あるいは、こんな言い方もされました。「スペシャルティコーヒーはスペシャルティーコーヒーという言葉の登場以前には、どういう意味で本質として存在していたのか」。そのとき、わたしはビタミンという有機化合物の区分についての例を引いて、あるややこしいいくつかの話をしたことがありました。難しい話ではありません。ただのややこしい話です。


たとえばビタミンCは1920年に発見されましたが、それは1919年まで、存在していなかったわけではありません。その名前で呼ばれる栄養素は、豚肉やレモンといったものに、1920年から急に含まれはじめたわけではありません。しかしある意味でやはり、1919年にはそれは存在しませんでした。スペシャルティーコーヒーは1978年に、ビタミンCが1920年に「登場」したことと同じように世の中にあらわれましたが、では1977年までのコーヒーに、スペシャルティコーヒー(ないしそれと同じ要素)がなかったかと言われれば、そうではないのです。しかし、やはりある意味では存在しませんでした。そして、何度も同語反復しますが、やはりある意味ではそれは存在したのです。


『それはひとつのビジネスです。経済上の取引です。製品に名前をつけ、それを市場に売り出す、ひとつの産業です。それだけのものです。それ以上のものじゃ少しもありません。もっとも、それ以上のものじゃ少しもないということは、きわめて強力だということです』(ゴダール)


(わたしは思うのですが)、物事を理解するというのは本当に大変なことです。それでも定義をめぐるあたりで大切なことは、「前後」(ヘーゲル)や「程度」(ニーチェ)ではなく、言葉がどこで生まれてどこで死んで行くか、そして、それがどのように世の中に機能しているかを、よく見ようとすることではないでしょうか。あるいは「何の形も色もなく、特定の色や形になろうといつも待っているもの」(鈴木俊隆)を、出来るだけよく見ようとすることではないでしょうか。そして、それは何か非常に倫理的な問題でもあるように思うのです。


金氏はこう続けていました。「私はお店に来てくれている人達に心から感謝しながら尽くしています。それが本質だと思います」。


わたしもそう思います。


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