思いも寄らない事を尋ねられる事があります。
「コーヒーを飲んでひとくちめに、味としてどこを見ているのですか?」
そんな事は、いままで一度も考えた事が無いような気がしました。
そして奇妙な事に、私はこの仕事を通じて、はっきり言ってその事しか考えて来なかったようなものなのです。そのあとの会話で私は、(どこも見ていないのだけど)という事を思いながら、(かろうじて)「コーヒーはただバランスのようなものを見ている」と答えました。豆乃木さん(静岡)に訪れた時の話です。
瑣末なやり取りでしたが、それから一年くらいずっと、その事を考えていました。
バランスのようなものとは、何なのでしょうか。
私の場合「コーヒーの味を見る」という事を考えると、いっぺんにある形態のカップテストの場面を思い出すのですが、現在支配的なコーヒーのカップテストの場面では、「バランス」という概念は、評価項目のただのひとつでしかありません。ウェルバランスであればそのコーヒー(生豆)は良い、という事は言えませんし、仮にそうであっても話にならないのです。その時、コーヒーの味わいにおける「バランス」とは、ただの周縁です。
バランスという語が、まったくバランス感を欠いて配置(=認識)されている。。実に奇妙ですが、一方でこれはとても当たり前の事でもなかったでしょうか。審査会における購買の場面で、コーヒー生豆はつねにバランスという「中庸な」概念を追いやるくらいの、圧倒的な「個性」を見られているのですから。しかし「個性」は偏りを平然と中心的な出来事とし、その出来事はいつのまにか一番高い棚の上に置かれているような気もします。本来あるべき無形の了解まで、駆逐されているかのように思えるほどです。
自分がCQIに身を置くような機会をくぐり抜けてなおそれらの出来事(カッピングなど)に最後まで馴染めなかったのも、その中心的な出来事の範囲に抽象力とでもいうべき何かに対する配慮がまったくなく、羅列だけが横行し、またそれが全てであった事が原因かもしれません。作り手以外、一体誰が半球形のスプーンでコーヒーを飲むというのでしょうか。そして本来作り手こそ正しく「周縁」であったはずなのです。