店主です。
ここ数年みずからあたらしい自家焙煎珈琲店に足をむけるということはほとんどなかったのですが、ニ、三のまとまった出来事があり、最近また少しずつ出かけるようになっています。昨今は標高の順番にコーヒーのメニューが並んだ、口端にのぼるお店を訪問しました。素敵なお店でした。
しかし、わたしは(もともとよくわかっているつもりもありませんが)、コーヒーをあまりわからずに頼んでしまいました。標高の高いものであればしっかりと焼き込んであり、低いものであれば丁寧にライトに焼いてある。。そんな無意識で、「標高」という言葉の喚起力に揺さぶられ、なんということもなしにイメージのみで頼んでしまったのです。供されたものは、それとはまったく反対の出来事としてメニューに置かれていました。
むかし(この言葉には注意が必要)であれば、半ば当然事のように、標高が高ければ深く焼き込めるし、そうでなければデンシティの無さや身質のデリケートさを、あるしゅ焼き加減の慎ましさとしてあらわす、というような、(セオリーとまでいかなくても)一定水準上の不文律があったのではないでしょうか。しかし、何につけても、物事の価値が180度変わるというのはけっこうあることと思います。いまの若い人たちには、いまわたしの書いていることの意味などまったくわからないのではないでしょうか。
『これは聞いた話だが、日本の某自家焙煎珈琲業者がプロバットを輸入した時、西ドイツから焙煎指導者がやってきたと言う。据え付けの完了したマシンで、まず日本の焙煎技術者が試運転を兼ねて焙煎し、煎り上がった豆を誇らしげに差し出したところ、くだんのドイツ人技術者はこんなふうに叫んだと言う。「生だ、生だ!」』(『珈琲大全』)
物事の価値が180度変わる、という意味では、このような文章もそれをよくあらわしているように思います。ほとんどある地点から線を引いた下の世代の人たちが、この文章の意味をわからないという気がします。わたしも最初は意味がわかりませんでした。ある人の言った「大坊さんたちは深煎りのサードウェーブだった」という発言を参照に、ようやく田口氏の言ったことの意味が、深い部分で理解できたというような記憶があるほどです。しかし、そのような手がかりというか、もはや参照になるべきものも判然としないというのが、いま(この言葉にも注意が必要)はあると思います。
プロバットのことでいえば、機械自体の性能のピークは四半世紀前あたりだったという声をよく耳にします。まったくその通りだと思います。それをもし、当時の中の本質で捉えていれば、です。わたしは「性能」と「性質」は少しずれていると思います。違うと思います。そもそも、すべての焙煎度合をバランス良く、という概念がもっとも捻くれているのだという、疑いの視点がそこには欠けているのではないでしょうか。それはコーヒーという、独自性の塊・独りよがりの塊のようなコンテンツ上で、「まったく捻くれない」という捻くれ方です。
しかし、こういう話もすぐに反転すると思います。
わたしはいつも、何か決まったことのようにものを言うことから逃げたいのですが、結局うまく逃げられないままこの文章の終わりまで来てしまいました。