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定量的なものと定性的なもの

Posted: 2020.12.18 Category: ブログ Comment: (0)

定量的なものと定性的なものイメージ1

店主です。


コクウ珈琲さんとのインスタライブは、久しぶりに刺激のある時間でした。同じ事業を生業にしている先達にむかって、甘えたことを話せる時間があり、わたしは幸せだと思います。同じ事業を生業にしているもの同士、無意識の会話の中にお互いの立ち位置を意識する作業があったように(わたしは)思いました。そしてあのときは、そのことをあたまの隅に置きつつも、もう片方の隅にずっとある「中庸」という言葉の意味について、ふたたび考える時間があったのです。


『土地は誰のものでもなく、万人のものだったから、わざわざ土地の一部をかこって、『ここはおれのものだ』という人は気違いだと思われたし、物にしても、すべての人が自分で手に入れたり貯えたりする能力があるだけのものしか持っていなかったので、だれ一人ほかの者より余計に持つということがなく、食べたり、火薬やウィスキーと交換したりする以上に苦労して手に入れたり、欲しがったりするのは、気違いだけだと思われていた』(『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー)


わたしは以前、(ある人にあらためて取り上げてもらう機会もありましたが)、自分がコーヒーでやっていることを一言で言うなら「中庸」だというふうに書いたことがあります。「中庸」、という言葉を取り上げると真っ先に『論語』が上がると思いますが、そのわりに、言葉の意味は正しく掴まれているようには思えません。論語をよく読めば、中庸、というのは、フィフティフィフティのことでないのは明らかです。というか、それはそういう種類の「定量化」とは、正反対のものだと思います。中庸とは、定量化できるものと出来ないものの限界を見定めつつ、ものを置ける場所を定め、そこにどれだけバランスという概念を乗せられるかという「微妙さ」のことだとわたしは考えています。


『だから彼は土地がすべて区分けされてきちんと決められ、そこに住んでいる人々も、彼らが偶然生まれついた肌の色や、偶然所有したものによってすべて区分けされ、ほんの僅かな人がほかの人に対しての生殺与奪権や、交換したり売り払ったりする権利ばかりでなく、壜からウィスキーをついでそのグラスを手に持たせるとか、長靴を脱がせて床につかせるとか、この世がはじまって以来すべての人間が自分でしなければならず、だれもが死ぬまでしなければならないような、だれもが今までもこれからもしたがらないだろうが、だれしも物を噛んだり飲み込んだり呼吸したりする努力をさけようとは思わないのと同じように、それをさけようと思う人は彼の知る限り一人もいないような、毎日繰り返しする個人的な用事をしてくれる生きた人間を持っているような土地があるとは思いもしなかったのだ』(フォークナー)


定量化に囚われた人々は、何かを区分けしたり、たんに階層秩序を生み出しただけではありません。むしろ出来上がったあとの物事に対して、共同体内部を安定させるためのインジケーターとして、その役割を確かめているように思います。わたしがさきの会話の無意識の中で捉えた「立ち位置」という区分け自体、出処はこれらと同じ意識なのでしょうか? だとしたら、それは、ものすごいことです。


かつてどこかで「0と無限大」という表記の仕方で、このことに対して、徹底的に抗した人の文章がありました。それは計量可能な物事と、それのもたらす抑圧に対しての、「定性的」なものの闘争です。共同体内部を安定させるための閉じた定量化とその思考----わたしは人から指摘される緩さとわけのわからない情熱の往還の中、それらに抗しているのだと思います。


(なんとなくそんな感じのことを、家に帰ってお茶を飲みながら考えました)。


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