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怒りと困惑の対象

Posted: 2022.10.27 Category: ブログ

怒りと困惑の対象イメージ1

店主です。


いつくらい前のことだったか忘れてしまったのですが、カート・コバーンの発言集成に目を通していたときに、彼の発言の中ではもっとも面白いというわけではなかったものの、どこか刺さって、抜けない内容のものがありました。それはいまとなっては出典もあきらかにすることのできないような、(たしか)あるアメリカ人インタビュアーと、彼の対話の記事だったように思います。そこにはインタビューをしている人物から、彼にとってどれほどの注目点であるのかも定かではない、(とくに)ギター演奏の奏法の部分に関しての問いかけがありました。ギター奏法において、さらに細分化されたアーミングのプレイに関して、きみはどうしてそれを使用した弾き方をしないの、というような発問があったのです。ため息と同時にしか聞こえてこない回答として、彼はそもそもトレモロアームのうち、エレクトリックギターにとって機能として間違いのないものはロック式のアームしかなかったことを指摘した上で、ロック式トレモロが、(ロックミュージックにとって)「構造上の、あるいは機能上の間違いがないという以外、ほとんどすべて間違い」だった点を指摘しました。さらに、ロックミュージックを主語としたときに、それに対して意味があった(正しかった)トレモロアームとしては、構造として欠陥しかなかったシンクロナイズドトレモロだけで、しかもそれを(世の中に)弾いてみせたのは、ジミ・ヘンドリックスだけだった、という発言を返していました。


なんという喝破だろう、とわたしは慄然としましたが、もしここにくわえることがあるとすれば、シンクロナイズドトレモロ自体、ニルヴァーナのフロントマンの言う「ゆいいつの正解の使い方」をしたジミ・ヘンドリックスの奏法が、そもそもありえない使用だったことでしょうか。もともとフェンダー社のエレクトリックギター(ストラトキャスター)につけられたシンクロナイズドトレモロは、どちらかといえばビブラートの柔らかな補助具のようなもので、楽器の構造からしたら、あくまで調整弁としての機能しか想定されていませんでした。(しかも、チューニングは狂いました)。ジミ・ヘンドリックスの演奏を見て、レオ・フェンダーが激怒したのは有名な話です。音域や音色を過激に変化させたり、演奏自体の推進力として激しく使用するようなトレモロアームの使い方は、製作者側からしたらまったく想定されていなかったのです。エレクトリックギターという、(あるいはロックミュージックという)、異質性の高い、あるいは得体の知れない想念の跋扈する物事の中で、いまでこそ(おそらく)今後100年たとうと彼を超えるギタリストなどあらわれることがないなどと言われたりもするジミ・ヘンドリックスのやった事は、当時あの偉大なるギター製作者(レオ・フェンダー)からしたら、ただただ怒りと困惑の対象でしかなかったのです。


しかし、機械装置そのものが、あるいはその調整弁が製作者の意図をこえて使用されてしまうという出来事は、たんにエレクトリックギターにおけるビブラートの問題にとどまるものではない、ともいえないでしょうか? たとえばジミ・ヘンドリックスがシンクロナイズドトレモロに対して行ったアプローチは、クール・ハークがただの音楽再生機器でしかないターンテーブルを2つ並べ、レコードの特定部分を交互に繰り返すことにより、ブレイクビーツを生み出したことと似ている気がするものです。エミール・ベルリナーがグラモフォンを発明したとき、レコードプレーヤーを「楽器」にしてしまう音楽への想定があったとは、わたしにはとても思えません(=ヒップホップ)。同じようなことは、音楽にとってというだけでなく、どのような分野でも多かれ少なかれあらわれているのではないでしょうか。コーヒーに関していえば、(たとえば)、フジローヤル焙煎機における排気ダンパーの使われ方は、フェンダーストラトキャスターのシンクロナイズドトレモロの使われ方に近い何かの困惑が、長い年月をかけて見え隠れするような気がします。あるいは、グラモフォンから派生したレコード再生プレーヤーが、楽器そのものとして使われたことに近い何かの創意が、見え隠れする気がします。


カート・コバーンの発言に話を戻せば、「構造上の、あるいは機能上の間違いがないという以外、ほとんどすべて間違い」という彼のものの言い方は、非常に怜悧であり、且つとても気がかりなものです。存在が怒りと困惑そのものだった彼の発言として、なにかとても気がかりなものです。このことは、(たとえどれだけ精緻であっても)分析哲学や記号論理学といった学問が、現実の複雑さをいっさい言い得ていないことに近いなにかの欠陥を突いています。コーヒーのことでいえば、これに該当しそうなものの数を、わたしはかなり首をかしげたりだとか、おそるおそる指を折ったりだとかしながら数えたりします。つまり、それは、(コーヒーで言えば)どういうものなのでしょうか? 「構造上の、あるいは機能上の間違いがないという以外、ほとんどすべて間違い」に思えるものというのは。。


いくつかのなにかがあたまに浮かびますが、わたしは道理に暗いので、本当は何もよくわかっていません。


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