店主です。
先日お店にドイツ文学の教授なる方が来訪される機会がありました。わたし個人を訪ねてきて、ある「文学的な」お話をされていかれたことがあったのです。これは以前書いたことの繰り返しになりますが、(当たり前のことですが)わたしは自分のことを著述家とも思っていませんし、読書家とも思っていません。そう思われているのなら著述業を生業にしている人にとって、(あるいは読書に思い入れのある人にとって)、失礼極まりない話であるというほかありません。日常の自分がしていることは、かろうじて(あくまでかろうじてですが)商材としてのコーヒー、あるいはコーヒー豆を扱うごく些末な事業体の運営の範疇を出るものではありません。ですのでわたしの書いたものに起因する訪問の出来事に対しては、(それ自体は決してはじめてではないし、過去にえげつないデリディアンに背中を撃たれたこともありましたが)、いささか奇妙な感じを覚えました。そして、声をかけられて意味がわかった際には、なんとなく伏し目がちに笑うよりほかありませんでした。
まず、事例としていくつかの誤解を生む程度には、決して多くはない場面で発刊されているわたしの書き物というのがあります。(その方が見つけたのはウェブ上で公開されているものではなく、刷られて活字になったものでしたが)それが世の中に(涙が出るほどわずかに)流通し、結果他人様にただのコーヒー屋さんにまで足を運ばせ----また今回それに該当するのが学術的な教育機関に身を置いた文学の専門分野の方であるというのは、(たしかめるまでもなく)どこか脱力するような話です。たわいもない会話に混ぜて、そのときに読んでいるものの話として、わたしは(まったくの脚色を挟まず)マルティン・ハイデッカーの話をしました。たんにそのころのわたしは(いまもですが)『存在と時間』を読んでいたから、無理もない話です。しかし、それはそれとして、話は「論理的」なものに及びました。
わたしはその時の会話を詳しくは覚えていないのですが、なぜか論理的なものをめぐり、その時間があったことだけを思い出します。論理的、あるいは、論理的なもの。。しかし、わたしはいつも思うのですが、固有名詞をつないでいるときはまだ良いのですが、会話の中に急に筋道の法則的な繋がりが見出される瞬間というのは、どこか唆されたような、うそ寒い気持ちにならないでしょうか? あるいはこれは、まったく個人的な感想かもしれません。内容がどうというよりも、受け取り方の問題で、「これは論理的だ」とか、「あれは科学的だ」などという言葉のあらわれに、どうも違和感以外のものを感じないのです。
たとえば、論理というものは本来、どれだけ印象を消せるかという問題であるはずです。論理そのものの「印象」を確かめることではないのです。しかし、人々はしゅしゅの法則性を前に、いつもそれが「論理的である」だとか「論理的でない」などという、「印象」以外のものの受け取り方を知らないのです。これは、大したことではないのでしょうか。
『静止と運動、固定と弛緩、すべてこれらはそれ自体では現存しておらず、事実上は「程度」の差をあらわしているにすぎず、ある度をもった光学にとって対立であるかのごとくみえる対立である。私たちのもつ対立の概念は、論理学上の対立から得られたものにすぎず、そして、ここから間違って事物のうちへと持ち込まれたのである』(『権力への意志』ニーチェ)
わたしはハイデッカーを読み直しているうちに、ようやくニーチェの言っていることが、おぼろげながらわかってくる気がしました。われわれは物を考えているときに、すでに「考える」という(論理の)「印象」の中に捉われているし、こういう言い方が許されるなら、論理というものを目指しているのではなく、目指している行為の足元が論理なのです。そしてそのことは、われわれが意識しても除けない(覗けない)ような何かの前提です。コーヒーの仕事をしていても、それ自体が現実に存在しているわけでもなく、「印象」によって仮構され「間違って事物のうちへと持ち込まれた」(ニーチェ)ものに出会うことがあります。そういったものに対する基本的な違和感から、わたしはいまの自分のコーヒーに対する関わりの態度を、行き進みの中で選択していたような気持ちもありました。
もちろんそれは、いまだからこう思うというようなもので、過程においてつねに意識的だったわけではありません。いずれにしても、わたしはそのことを追求する気持ちもないし、それが自分の「論理」だとも思いません。物事を間違って尺度の側へ押し込もうとする人たちから、自身が受け取るものの少なさに嘆じる気持ちを覚えながら、何の形も色もなく特定の色や形になろうといつも待っているものを、日々出来るだけよく見ようとしているようなものです。