店主です。
以前も書いたことのある内容ですが、自分は自分の仕事をしているときにとくに意識している人が二人ほどおりまして、その方たちと会ってしゃべるときに、論語が引用されていることをよく思っています。その方たちは、論語より直接に言葉を引っ張ってきてみえるときもありますが、どちらかと言えば話しの中に、論語に貫かれている世界観があらわれているというような印象を受けます。
そんな『論語』ですが、ときおり読み返しているうちに最近気になった部分をこれから書きたいと思います(わたしの訳なので、間違っているかもしれませんが)。
孔子が衛の国に訪れた時の話です。彼は、人の往来の多さに言及します。弟子たちが、そこに何を加えて行くべきかを問います。孔子は、富ませよう、と言います。弟子は、さらに問います。富んだら、何をすれば良いのですか、と。そのあとに続く言葉がこうです。「のたまわく、これを教えん」。
私はいま自分がしている仕事の中で、とてもよく考えていた事があります。それは、ある場所が栄えるという事は、まず最初に人の往来があるべき(あわられるべき)で、富はからなずそのあとからついてくるのではないかという事です。そして、その後に「教育や知識」が、来る。
現代において支配的な経営感覚では、どうでしょうか。ほとんどの人が、知識からはじまり、それをマネタイズする事で人の往来があらわれる、と考えるのではないでしょうか。ここまで、まったく真逆の考え方です。こういう意味で、私の考えは、孔子の見ていた世界観ともしかしたらそう遠くなかったといえる部分によって支えられているのかもしれません。
しかし、今思うことは、孔子がこの場面において放った「これを教えん」という語の重みですが。