店主です。
「焙煎機はどれだけの量の豆を入れて焼けば、一番美味しく焼けますか?」
いわれたのは、たしかそんな質問でした。
わたしは同席の友人(某大工学部機械工学科卒)が、「工業製品なんだから8割に決まってるでしょ」と答えたのを聞いて、下を向いてクスクス笑ってしまいました。答えが的確だったからではありません。あまりにも、そのままの答えだったからです。面食らった質問者からは疑義があったので、それも仕方のないことと思いました。焙煎はやはりある意味で、奥が深いものだと思われているのでしょうか? わたしはその場でくちが裂けてもいえませんでしたが、納得感をおぼえない相対の人に、どこか応援的な気持ちがあることを無視できませんでした。
『安易に発せられる「奥が深い」という言葉を聞くと、私はいつも気恥ずかしい思いがする。自家焙煎など、世間がいうほどご大層なものではないと思っているからだ」(『スペシャルティコーヒー大全』)
こういう発言に関して、わたしは多くの場面で、いくつかの言い換えを見てきました。多くのひとによる、いくつかのヴァリエーションを見てきました。自分が自分に向けてつぶやくものもあったと思います。こういうものは、ごくわずかなひとたちの感想なのでしょうか? そして、「いやおかしいな」、とも思うのです。「自家焙煎など、世間がいうほどご大層なものではない」。同じ人物による、「神秘的なものではない」という言い方もあったと思います。焙煎に「拘泥」している人たちですら、おそろしく冷めた意識で、心のどこかでこれと同じに思っているところがある気がするのです。「これってばかなんじゃないか」だとか、「おれってばかなんじゃないか」だとか思っている節がある(気がする)のです。しかし一方で、焙煎は神秘的であるというふうにも思われています。それがどうしてかはよくわかりません。コーヒーにある「何かに拘泥しているケチくささ」というのは、作り手側の意識だけでなく、飲み手側に問われる意識でもあるのです。そして、作り手というのはいつも飲み手です。
先日、大きな金融機関の方としゃべる機会がありました。融資後の工業製品が「商売的な利にどれだけ寄与しているか」だとか、そういう話でした。勝手に急所をあかるみにされたような気がしたわたしは、「コーヒーの仕事の魅力は、事業規模の大小によって優劣がはかれないことだと思いますよ」だとか、そういうことをくちにした気がします。あわててたしか、そんなことをくちにしていた気がします。手元にあるカップ一杯のコーヒーは、いつもより少し苦い気がしました。そしてそのあといくつかのやりとりがすぎて、窓の外をなんとなく眺めていたわたしの耳には、「工業製品なんだから8割に決まってるでしょ」という声が聞こえる気がしたのです。
『私にとって、書くことは完璧に肯定的な行為です。何事か賛美することを言い表すのであり、憎むものを攻撃することではないのです。何かを告発するために書くというのは、最も低次元な行為です』(ジル・ドゥルーズ)
コーヒーの仕事の魅力は「事業規模の大小によって優劣がはかれないことだと思う」と答えた自分は、それが「拘泥」の側を救うだとか、そういう意図があるのではなかったと思います。自分ではそうは思っていませんでした。しかし、もし無意識にそう思っていたのであれば、それは少し感傷的なことです。個人的には焙煎機はただの工業製品であり、それの使い方が神がかっているだとか、そうでないとかいう議論は、こっけいだと思います。工業製品としての道具が優れた使い方をされている(はずだ)という現実を保証するのは、それが「商売的な利にどれだけ寄与しているか」だけであり、それ以外の見方(味方)はすべてフィクションです。そしてこのことは、「あいつは焙煎の天才だ」とかいうことばと同じレベルで、本当はいってもいわなくてもどちらでも良いことなのです。
『(何かを告発するために書くというのは最も低次元な行為です)。ただし、扱おうとする問題の内部で、何かしらの疑問、納得のいかないことに必然的に突き当たるのが、書くという行為だというのも真実です』(ドゥルーズ)
神的いわれ方をしている人たちですら、自分たちを商売的に救っているのが、たんなる工業製品としての道具の使い方の「精妙さ」(グールド)だとかいうチャチなものではなく、それ以外の要素(そのほとんどが偶然的なもの)であるということは、痛いほどわかっているはずです。このことは、たしかにそうなのです。少なくとも、自分がふれる機会のあった神的いわれ方をしていたひとたちに関して言えばそうでした。ひとはどうしてかなにかを見つけては、「天才」だとか「かみさま」だとか言わずにいられないのでしょうか。そういうふうに、なぜだかいわずにはいられないのです。自家焙煎という「世間がいうほどご大層でないもの」より、このことのほうが自分にはよほど「神秘的」です。