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(無題)

Posted: 2020.12.27 Category: ブログ

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店主です。


年の瀬、こんなこと考えていました。


かつて、あるとても知的な人に向けて、わたしはずいぶん無邪気に「あなたとわたしとは因縁がある」と言ったことがあります。


そのときあらわれた反応をみて、わたしは普段まったく自分がしないことに----言葉を世間で了解されている風な形ではなく、実に辞書的に使用した自分に----素朴に驚いたのです。(自分が用法を間違えていると思って、「因縁」という語の意味を、あらためて辞書で引いたほどです)。捉えている物事の不確かさと、それが機能する場での意識の低さを、あらためて確認する出来事でした。


わたしが今年お店の運営していく上で、とくに印象深かったのは、あるウイルスのことでもなく、事業体に向けた種々の(そのうちのいくつかはほとんど閉口するような形での)要請でもなく、サービスの制限がもたらす微妙な二律背反の問題でも、今後不確かなものとして残る業態についての予断でもありませんでした。思い出すのは「カフェをはじめてみませんか?」での講師の方の、話の内容の及ぶ領域とその広がり方----そして参加の皆様の「行儀」の程度のことです。


たとえば、わたしはいつも思うのですが、カフェ開業を(あるいは独立ということを)、人生における「自分の存在意義をかけた凄まじい最後の賭け」(モリッシー)だと思っている人は、今も昔も、はたしてどれくらいいるのでしょうか?

そして、それはおそらくまったく好い気な物で、かつてのわたし自身の姿とどこか相似形を描いているに違いないものなのです。


『私は今、ある牢獄の中にいます。どのような牢獄かはよくわからないのですが、でも、ある牢獄の中にいます。だから私は、そこからぬけ出すためのアイデアを見つけなければなりません。自分が行きたいと思う世界をつくりあげなければなりません』(『映画史』ゴダール)


わたしはかつて「牢獄」という言葉を「捕縛」という言葉で捉え直して、学び舎に依頼された寄稿文を仕上げたことがあります。まったく、一気呵成でした。そしてある人から、それ以上の早さで私信のような感想をもらったことを記憶しています。


グッとくる言葉でした。


あの文章の中でわたしが書きたかった「自分の人生でゆいいつ希望だと思っているものが、一番の足枷になっている」というのは、わたしにとって構図的に言って終わるものでもなければ、それこそ永久に何かの形で付き合うしかないようなものでした。そのことに関して、わたしはポール・ヴァレリーを読み返したり、ウィリアム・フォークナーを読み返したりしました。そして、時が経ちました。


『私は自分に、「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」という疑問をなげかけるわけです』(ゴダール)


わたしはその時書いた「時代」を終え、生まれ育った場所をちぎれるようにして離れたあと、目的とされた出来事をたった三日ほどで終えました。


それから7年がたちました。


一人きりただ思索にふけるくらいしかなかったわたしに起こったことは、自分がつけた、いつか外すことになる足枷を首をかしげながら眺めることと、わたしなどとは比せない重い足枷をつけた人々を、死ぬまで歓待し続けるための準備のようでした。


『私には今、映画の世界に二十年間いつづけたために、あるいはまた、私の映画のつくり方のために、自分がむしろ、自分自身から離れてあまり遠くに行き過ぎたと思えます。自分が自分自身の外にいるように思えます。そして私は、「自分が今いる場所」に帰りたいのです』(ゴダール)


そしてそれはいまも続いています。


人はまったく「自分の人生でゆいいつ希望だと思っているものが、一番の足枷になっている」状態を引き摺りながら歩いています。それがどうしてなのか、わたしにはよくわかりません。


本当に、一体、どうしてなのか?


わたしにはよくわかりません。


そして(文字通り)死ぬまでそうしている人たちと、おそらくわたしは「因縁」のような関係で結ばれているのだと思います。


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