店主です。
先日までカフェ・アダチさんで行われていたコーヒーのセミナーのなかで、最後にコーヒーとロックミュージックについてなにかをしゃべる----正確にいえばしゃべる寸前の機会----があったのですが、時間的な制約に押されて、それを断念したことがありました。
コーヒーとロックミュージックについては、すでに何年か前に、ここでなにかを書いたことがあります。しかし、本来このふたつのこと(珈琲とロックミュージック)は、とりたてて並べてなにかを言う性質のものではないので、そのときはひどくためらいがちに、おそるおるものを書いたことを記憶しています。そもそも、ただの飲み物(珈琲)と、ただの音楽(とくにロックミュージックは個人的にはアクチュアルな意味ではもう完全に役目を終えていて、クラシックやジャズのような形容詞的なニュアンスしか残っていないと思っている)とを、並列することも、どこかおかしな話です。しかし、個人的にこのふたつについて書いていることは、前回どこかで書いたものと、今回のもの、それで終わるものでないこともつけくわえなければなりません。実際、コーヒーもロックミュージックも、「忘却されたドイツ」というテーマから見てみると、非常になにか湧出的な広がりを持つ対象であるとわたしは思います。このあたりには、なにかものすごく書き足りないようなテーマがある気がするのです。たとえばドイツ(というふうに呼ばれる領土的区切りを持つ事になった土地に住む人々とその文化的政治的機能)は、19世紀半ばと、20世紀半ばと、世界史から二度もあからさまに忘れられるといった出来事がありました。それでもそこでは、面白いことは起こっていたのです。欧州列強と呼ばれる国の中でもっとも遅れた独立国家から、(コーヒーのことでいえば)業務用小型焙煎機のプロトタイプと、中深煎り(ジャーマンロースト)だとかいう焙煎度合とペーパードリップが生まれた経緯は、残り物で手に入れた植民地(正確に言えば経済統治かもしれないけども)がたまたまコーヒーというコンテンツにとってアドバンテージがあったことが保証していたし、かの国のクラウトロックにおける音楽的概念は、確実にロックミュージックのありようを試す出来事になりました。もちろんそれらがただの延命装置でしかなかったロックミュージックと、いつのまにかデファクトなスタンダード化していったコーヒーとでは、希望と絶望の意味合いがまるで違いますが。
そういう意味で、コーヒーとロックミュージックは、「忘却されたドイツ」というテーマ的観点から見返すと、非常になにか似ているところがあります。(このことについては、もう少し余裕があるときにもう少し別の角度から近づくべき事柄なので、これ以上は割愛します)。似ているところはもちろん、そればかりではありません。わたしが思うに、コーヒーとロックミュージックには、どちらも1977年と1978年の間に何か大きな断絶があり、そこで歴史的なひとつのターンが終わって見えるところがあるのです。その時期のヨーロッパを見てみると、フランスのコーヒー国際会議におけるエルナ・クヌッセンの立ち居振る舞いと、イギリスのエリザベス女王在位周年祝典同日のテムズ川のボート・ライブ(セックス・ピストルズ)という、象徴的なふたつの出来事がありました。このふたつは、なにかとても象徴的な出来事です。片方では Special ということばが過剰な意味で使われていて、片方では No future ということばが、これもまたしょうもないほど過剰な意味で使われていましたが、ことばのかたちは違っていても、これらの意味はほとんど同じでした。
その後のアメリカを、コーヒーとロックミュージックという概念から見てみると、アメリカ北西部のひとつの田舎街から20世紀最後の、そしてともに最大のユースカルチャーが出ていることは以前指摘したとおりの内容です。それは、概念的な言い方をすればグランジとエスプレッソであり、固有名詞的な言い方をすれば、ニルヴァーナとスターバックスコーヒーというものでした。20世紀後半のアメリカ西海岸では、沿岸部の大きなマーケットプレイスに代表されるように、コスモポリタン的な空気が醸されていましたが、そのあたりの空気感は、ブルース・パビットとジョナサン・ポーンマンのサブ・ポップ・レーベル(もともとは雑誌)に象徴されているところがあります。サブ・ポップ・レーベルについては、ロック好きにとっては、わざわざ解説するまでもないでしょう。しかしコーヒーのことは、少しだけ解説が必要かもしれません。そこには、アルフレッド・ピートという人がいたからです。ヨーロッパにルーツを持つ風変わりな珈琲の焙煎人が、ぶっきらぼうに姿をあらわすことが許容されたアメリカ西海岸の商圏。彼がある形でアメリカ大陸にショップロースターサイズのプロバット焙煎機を持ち込んだことと、それによって味わいがもたらされた深煎りの焙煎コーヒー豆がどういうものだったのか、正確なところはよくわかりませんが、その影響はこういうものにあらわれているのかもしれません。例えば、その焙煎所のちかくには、アルフレッド・ピートの影響を受けてはじまろうとしていた、コーヒー豆売り専門店のひとつだったセイレーンのマークをつけた店がありました。あるいは、のちにそこを自分で買収することになるチェーンストアの創業者が、ゼロックスの営業職を捨てたのちに場末の自家焙煎コーヒー豆売り店に転職するなどの出来事がありました。しかし、ハワード・シュルツはアメリカ人ではなく、もともと「ドイツ系の移民」なのです。自分の国の焙煎機で焼かれたのがルーツであるコーヒー豆を、気に入らないという方がおかしな話なのです。付言すれば、カート・コバーンの母親も「ドイツ系の移民」です。われわれが思うアメリカ人というのは、ほとんどヨーロッパ人のことなのです。
コーヒーがどうかはよくわかりませんし、わかる種類のものでもないとは思いますが、ロックミュージックのほうは、歴史におけるアクチュアルな使命を終えてしまいました。ポスト構造主義下に高明な哲学者が、ロックミュージックにおけるエレクトリックギターについて、「それまでの楽器という概念をすべて破壊した楽器 ≒ テクノロジー」とくちにしましたが、その後のターンテーブルやサンプラーという道具たちは、「それまでの楽器」どころか、「楽器」という概念そのものを、壊滅的にまで壊してしまいました。これはもう、本当に破壊し尽くしてしまったのです。演奏家と呼ばれる人たちはこのことに気がついているひとも、気がついていないひともいました。たとえば、カナダ出身のあるピアニストは気がついていました。彼はピアニストとして演奏家の頂点に立ったあと、自分の音源を切り取り、一音一音分解して貼り付けるような作業をしました。それはあきらかに時代を先取りした、早すぎる演出でした。当時はまだ、それがどういう意味か、誰一人まるでわかっていなかったのです。ロックがまだ現代的な意味があると言われる時、例えば時代を引き受けているようなロックバンドと見なされているチームが、ビートルズが最初のアルバムを出してから最後のアルバムを出して解散するまでの時間的長さのあいだに、たった1枚だとか2枚だとかしか作品を出していないことには、あまり注意が払われていないような気がします。個人的なことをいえば、自分はもはや「テクノロジー」ということばを使うのにも、いくらかのためらいを覚えます。あるカナダ出身のラッパーはここ2年くらいでヒップホップの歴史に残る傑作を4枚というペースで出していますが、サーティファイド・ラバー・ボーイは、(世界最新のサウンドプロダクションと呼ばれるあの作品は)、iPhoneで録音されているのです。現実のテクノロジーが、もはやテクノロジーということばを置き去りにしてしまっているのです。
コーヒーの世界でも、様態は違えど、「現実のテクノロジーが、テクノロジーということばを置き去りにしてしまっている」ということがあると思います。音楽の世界よりだいぶんしょぼくても、なんとなくそういうことはあります。たとえば、わたしは自身が関わらないでいられないコーヒー講座などで、このような質問をされることがあります。それは、こういう内容です----講師はどうしてドリップスケール(コーヒースケール)を使わないのか、というような質問です。わたしは、たんに性に合わないだとか、本当はそれぐらいの回答しか持ち合わせていないのですが、それではあまりに「スケール」(尺度)が足りていないようで、どうも納得してもらうことができません。なので、わたしは「では、どうしてドリップスケールが必要なのでしょうか」と逆に質問してしまうのですが、完璧なスケール(尺度)でもって、「注湯の経過時間に対して、完璧な注湯量として、コーヒー液が寸分の狂いもなく仕上がってくるからです」というような回答をもらいます。
「それってただのコーヒーメーカーですよね?」
というような返しをしてしまうと、毎度現場が凍りついてしまうのを何度も繰り返しているのですが、わたしはどうしても回答をアップデートすることができません。。「テクノロジー」が足りないのだと思います。