店主です。
私が某新聞上で連載している原稿に対して、発行元より、表現における「微妙な照査」がありました。最初の原稿では自店について、二稿目ではコクウ珈琲さんについて、三稿目でカフェ・バッハさんについて書いた(現在継続中)のですが、私はただ、自身の「履歴書」をなぞっていただけです。単純に、ただなぞっていただけです。そしてある程度まで予想していた通り、カフェ・バッハについて書いた回で、表現上の相互理解において不可避的なやり取りがいくつかありました。これは、致し方のないことでした。
いくつかのやりとりの中で、私がもっとも考えたのが、デファクトスタンダードという語についのことです。ある特定領域の内容で(新聞原稿を読まれた方はどこかお分かりと思いますが)バッハを語るとき、私は避け難く、この言葉を持ち出すより他ありませんでした。この部分に関するやりとりは特殊なもので、最終的に私はそれに「(事実上の標準)」と補足を加える形で、世に出すことに納得しました。
そして、このようなやり取りをしているときに、まったく同じタイミングで、(ある程度まで)権威的と思われている(ように思われる)日本の某コーヒー団体より、実に派生論的、かつ、呑気極まり無い「質問状」がお店に届いたのです。
『絶対に「1m」であると言えるし、絶対にそうではないと言えるものがある。それはローマにあるメートル原器である』(ウィトゲンシュタイン)
某所から謎の郵便物が届いたとき、そしてカフェ・バッハについて書くことの表現上の困難さに当たったとき、私はウィトゲンシュタインのこのような言葉を思い出していました。
そういえば、私はきちんと活字になるもので、田口氏についてようやく何か書けるとして、ずいぶんナイーブな内容の発言をしていたことをよく覚えています。自分よりふたまわり以上、年齢が上のバッハグループの店主に、そのように話していたことをよく覚えています。ただ、私がそのときに語っていた事は、(田口氏がそうであったように)、可能な限り「原理的」に物事を見るということ、そして自分が書くものに対して、少なくともその気概は込めたい、ということでした。