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生産と普及、クオリティーコントロールと購買、そしてコーヒーの関わり

Posted: 2020.06.07 Category: ブログ

生産と普及、クオリティーコントロールと購買、そしてコーヒーの関わりイメージ1

店主です。


お店の焙煎機は、ドイツ製のプロバットを使用しています。


なぜその焙煎機械を購入したのかを、私はいくつかの機会で人に話してきました。そして会話をするたび、色々な思いになりました。最後に話したのはつい先日のこと、杉山製作所さんとのインスタライブでの出来事です。ただし数名のプロが視聴する中では、ほとんど言いたい事はいえませんでした。それに比して最初期の頃に人と話した時、話す内容だけで、色々な事柄がゆっくりと整理されていったのをよく覚えています。私はフジローヤルとプロバット以外の焙煎機を、最初からほとんど使うつもりはなかったのです。そしてそのことは、あらためて人から教えられたようなものでした。


しかし、なぜプロバットだったのでしょうか----やはり考えてみても私にはよくわかりません。ただ、プロバット焙煎機を購入してから辿った道筋であれば、覚えています。北陸地方に、プロバット焙煎機(とくにプロバトーン)の(使い手として)第一人者と呼ばれる人がいたので、その人を訪ねたのです。地方都市から何度か遠方で、カンファレンスなどでお会いしていた人でした。私はその人から、プロバット焙煎機での焙煎の仕方を習ったのです。バッハのトレセン以来、そしてその後ゆいいつの、焙煎の勉強でした。


「焙煎と生産をめぐる形態には、工業史におけるありふれた文言がもっともよく当て嵌まる。問屋製家内工業、工場制手工業、工場制機械工業。コーヒー生産の世界でも、横断のないかぎり形態はこの三つに収歛される。立ち止まっているかぎりどれかから外れるように思えても、かならずこの三つのうちに収歛される。もちろん、文言はメタファーとしてのもので、実際に工場制手工業が、コーヒーの世界でどの程度マニュファクチュア的であるかという問題ではない。焙煎機のサイズ、取り扱う豆の種類、クオリティーコントロールの問題によって、焙煎をする人はこの三つのどれかを選ぶことになる。もちろん、プロバット焙煎機の「12kg」というサイズは、「工場制手工業的」なニュアンスの限界のようなもので、これを超えてくると、焙煎小屋は「工場」になる。一介の焙煎人が込められる思いがギリギリの部分で反映されるのが最大「10kg」という焙煎釜のサイズなのであり、「12」というのは、本当に微妙なプロバット社のスタンスがあらわれている」(忘備録より)


わたしは偉大な先達よりこのような言われ方をした言葉の意味を、本当の意味でよくわかっていませんでした。内容はとてもよくわかっていたつもりでしたが、やはりよくわかっていませんでした。自分がよくわかっていなかったということがわかるようになってきたのは、月のコーヒー豆生産量が500kgをこえたあたり、実際性の問題として、クオリティーコントロールという言葉に、いままでとは違うニュアンスが感じられるようになってきたころからです。それは売上高のみの問題ではなく、販路増のみの問題だけではなく、焙煎している人間が(微かであれ)焙煎機に込められる何かがサイズ的な限界の危うさをほんの一瞬垣間見せそうになり、あるいは同一エステート(/プロダクト)の生豆を年間を通じてあるていど「紳士的」に買える限界にほんの一瞬綻びが見えたり、そういった場面に遭遇しかかったときにようやくといったようなものでした。


しかし、クオリティーコントロールというのは、何という言葉なのでしょうか。私はこの言葉の意味を考えるとき、ディック・マクドナルドがレイ・クロックに向かって同じ言葉を(ひどい調子で)叫んでいた時の事をよく思い出します。それは本の中だったか、映画の中だったか、よく覚えていませんが。。


『誰でもいつでも、隣家の扉をたたき、その住人に「君にある物語を読んで聞かせるから、それに対して5ドル払ってもらえないかな」と言うことができます。そしてそれを繰り返せば、いったい何人のひとが、扉をあけて5ドル払ってその物語を聞いてくれるかがわかるわけです。しかもその場合、物語がよくできたものであるかどうかはまた別の問題です。こうしたことこそ、普及と生産に関する真の問題なのです』(ジャン=リュック・ゴダール )


あらたなフェーズに足をかけるとき、私はいつも、ゴダールのこの言葉を思い出します。それは文字通り新しい人の家の扉の前に立っているかの如き気分です。それは自然にこえていくものなのでしょうか。傍らには4から5、5から12へと移動してきたお店の系譜があり、工場製手工業のただ中に立っている自分と、クオリティーコントロールという言葉の聞こえ方が以前とはまるで違ってきている自分がいるのです。これは横断なのでしょうか。それとも、段階をこえたひとつの態度なのでしょうか。


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