店主です。
ある場所でサム・ウォルトンという人について話をしたとき、それを少し疑問に思うということで、人からどういう了見かというふうに言われたことがありました。おとずれた機会に経営者をひとり取り上げることがあったのですが、わたしはいままでそういう機会があったとき、彼のこと以外を人物として取り上げたことがありません。しかしそのときは、問題の人はコーヒー屋さんというわけではないし、それがどうしてあなたの事業に関係があるのか、というふうにも言われたとも思います。なんで関係があるのか、というふうに言われたと思います。あるいはもう少しだけなにか考えた(かもしれない)人には、とくにわたしのやっている事業とは規模も違うし、規模に対する考え方も違うのに、という所感もあったのかもしれません。
サム・ウォルトンという人は、経営者という肩書きが一番つよい意味を持っているから、わたしもそのようにいうし、そういう場所で取り上げるのですが、本当は人物的に魅力があるのです。つまり、発言の内容に魅力があるのです。たとえば、彼は商人(マーチャント)になってもっとも良かったことはなにか、と聞かれたときに、「(もし商人になれているとしたら)、ようやくこれで自分は、本質的な意味で政治的な発言をしなくてよいこととなった。それが良かった」と言ったのです。彼の世界にあること、小売業にまつわるニュアンスだとか、自身を取り巻く出来事への直接的な言及だとか、そういうことをいっさいいわないでそういったのです。わたしはそれを読んだとき、言葉の取り出され方もそうなのですが、ここまで洞察の深い人がいるのかととても驚いた記憶があります。
彼が「(商人になって)これで政治的な発言はしないでよくなった」というとき、政治というのが何をさしているのか、にわかにはよくわかりませんが、たとえばこういうことはないでしょうか。政治を問題にするとき、(問題にすることを)否定したところで、政治的な立場をとらない、という政治性がある、というようなことがないでしょうか。あるいは、「歴史的な立場をとらない、というところにある歴史性」(ヘーゲル)というようなことはないでしょうか。あるいは、文化的な立場をとらないという、圧倒的な文化的貢献なども同様です。わたしはなにか、そういうもののあらわれにとても惹かれるのです。これらは一般的にはよくわからない、「間接的なもの」をめぐる問題です。あるいは、とてもアレゴリカルな問題です。しかし直接的でないことは、立場がなくなることではないのです。この意味がわかるでしょうか。あのオクラホマ出身の世界的な経営者にものすごさがあるとしたら、そういうものだと思います。わたしは、そこに「政治」ということばだけを置いた彼のことを、本当に信頼できると思ったのです。それは言葉そのものだけを取り出したときにはわからない、「関係の問題」も含まれているから、同時にです。
直接的であるとか、間接的であるということは、過去にコーヒーに関してもほとんど同じことを書いたことがあります。かつ、わたしはいまもとてもそのことを気にしています。あるいは、中途半端に気にしています。近々露骨に「直接的」な出来事に出会ったからだとか、そういうことだけが理由なのではありません。「くわしさ」が嫌なのです。しかしこのくわしさというのは、いわゆるくわしさとは少しだけ種類が違うものです。この反目は、ウォルマート創始者が「政治」に対して言及回避を問題にしたことと、形式的になにかが似ているものです。あるいは『ドイツ・イデオロギー』の著者が、彼の主著の冒頭で「抽象力」と呼んだなにかにとても近いものです。ふえんすれば、共通の深慮として、彼らは(まったく逆方向の実践に収斂されていたとしても)「商品」というものに対する異常なまでの洞察力がありました。
『商品の常として、コーヒーもまた率直な物言いをしない。その言い草は思わせぶりで、まわりくどい。商品は、社会の価値本質をそれ自体で透かし見せる象徴的な存在なのではなく、それが直接表現できない価値本質の方向を、別のことを語りつつ、指さすアレゴリカルな存在であるという、商品特有のひねこびた性格に由来するのであろう』(臼井隆一郎)
「商品的」にそうなのかどうかはわかりません。それをいうには、わたしは(あたまなのか立場なのかはよくわかりませんが)あまりにも「弱い」のです。しかしわたしは、(それこそアレゴリカルな意味で)、コーヒーのまわりにある直接的なもの、あるいはくわしさを、ぬかるみのごとくなるべく避けるように歩いています。そして、例外はあれど基本的な意味で、いまもそうしていると思っています。
避けたところで、畢竟びちゃびちゃになるのがおちなのですが。