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禁忌と寓意

Posted: 2022.05.18 Category: ブログ

禁忌と寓意イメージ1

店主です。


時折わたしが「抽象力」という、ずいぶんあいまいかつ頼りないことばを使ってなにかを言うとき、あるいは、そうやってなにかを言おうとこころみるとき、ある程度まで頼りにしているのは『資本論』です。カール・マルクスの、『資本論』という著作です。


『価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。なぜだろう? 成体は、体細胞よりも研究しやすいからである。しかも、経済的形態の分析においては、顕微鏡も、化学試薬も、役に立たない。「抽象力」が、両者にとって変わらなければならない』(カール・マルクス『資本論』)


「抽象力」というと、いつも「それは具体的ではない」だとか「あなたの発言はどこか具体性にかける」という「ような」こと(直接そのようなことではない)を(ものすごく少数のひとびとに)言われてしまいますが、そのたびにわたしは伝わらない物事の数をかぞえるのみです。結局のところ、(言わないとは思いますが)、「どちらかといえば、それはむしろ反対のことで。。」などというふうに、簡単に言ってしまった方が早いのかもしれません。つまりあいまいに見るためではなく、顕微鏡よりもよく見るために「抽象力」が必要なのです。


顕微鏡よりもよく見るために、抽象力が必要である(マルクス)。この感覚は、わからないひとにはとことこんわからないと思います。わからないひとがだめだということではありません。その反対かもしれません。むしろ、(あえてなのか本質的にかどうかは判別がつかないですが)、一般的にこのことをよくわからないひとが、あるいはそういう身振りの洗練された人が、「学問的」であるとか、「アカデミック」であるとかいうふうにいわれたりもするくらいです。大学でマルクスに関わる人たちが世界中あわせて過去にも未来にもどれくらいいるのかわたしにはわかりませんが、マルクスは少なくとも(彼自身ちょっとふざけすぎたという点がなかったわけでもないですが)、その後の反動的な生真面目さによって取り返しがつかない程度には、アカデミズムに縁はありませんでした。そういうものに、縁がなかったのです。そしてこの事実は、まったくどうというともありません。このあたりの話は、ただそれくらいのものなのです。しかし、マルクスのように真面目に語れないわたしは、いつもそのことばを問題にするとき、つまり「抽象力」ということばを俎上にのせるときに、大きなとまどいを禁じえません。だから、本当は「抽象力」という言葉より、もっと良いことばがあるはずなのです。たとえば、それは「創意」というようなことばです。あるいはそれは、「寓意」というようなことばです。


『「コーヒーの誕生」という言い方が何を意味しているのかを改めて吟味しておく必要がある。というのも、今日、世界中で似たような響きで呼ばれているコーヒーという名称のもとになったアラビア語のカフワという言葉は、コーヒーが現れる以前から存在していたからである。混乱をおそれず書けば、カートもカフワであり、ワインもカフワであった。したがって、「コーヒーの誕生」というのは、後にコーヒーと通称されることになる、あのアフリカのブンと呼ばれる豆を使って作った飲み物が、アラビア語の「カフワ」という名称と結びつき、イスラーム文化圏に定着することを指しているのである』(『スーフィズムのコーヒー』)


たとえば、こういう文章には「創意」(グールド)があります。あるいは、「寓意」があります。なので、抽象力というのが「具体性」の真逆だと捉えられるうちにあっては、わたしはむしろ積極的に「寓意」ということばを使って、なにかを言ったりだとか、書いたりだとかするべきなのかもしれません。その方がまだ誤解は少ないはずだからです。しかし、「寓意」ということばには注意が必要です。それは、なにかを積極的にいうことだとか、なにかを積極的に捉えるだとかいうことと、基本的にずれている感覚だからです。わたしは、むしろこういったもののあらわれてくる「感覚」のほうに、取り出されたり切り取られたりする事物そのものよりも、よほど興味があります。この「感覚」は、なにか「慎み」だとか、「自己韜晦」だとか、そういうことばによって(かろうじて)捉えられるところがあるようなものです。


『カフワ(Qahwa)はqとhとwの子音からでき上がっている。これを語根(root)といい、母音を表記しないアラビア語では、この語根(root)がすでに特定の観念を呼び覚ますのである。この場合には「何かへの欲望を払う、少なくする、慎む」であるという。アルコールのワインも、覚醒剤めいたカートも、コーヒーも、一点において共通している、それは食物への欲望を払うのである』(『スーフィズムのコーヒー』)


わたしはこの「欲望を払う」だとか「少なくする」だとか、「慎む」だとかに、「寓意」というものの「寓意性」を見ます。それは、禁忌の感覚です。しかし、禁忌ということばそのものにある禁忌性のごときものによって、そのさきをいうことは阻まれてしまいます。しかし、コーヒーにもこういうところがある気がしないでしょうか? あくまで気がするだけですが、そういう気がするということは、たとえばこういう文章などによって(ある程度まで)あらわされています。


『珈琲を知りつくすことはできない。珈琲の珈琲性は、それほどかぎりないものである。ここまでが珈琲、これが珈琲の本質と、簡単に取り出して見せることができるくらいなら、それは「珈琲」とは言えない」(武田泰淳)


武田泰淳は、もちろん「珈琲」について直接語ったわけではありませんでした。なのでこれはわたしの「寓意」です。あるいはこれは、わたしの「創意」です。しかし、ここにあるのも、こういう形で取り出してみられるものも、結局のところやはり「寓意」の感覚、あるいは「禁忌」の感覚ではないでしょうか。わたしは、(なので)、コーヒーについては、(語る気持ちもありませんが)結局ほとんど何も語れません。せいぜいゆびをくわえたまま、禁忌と寓意の感覚を思うことくらいです。そしてある意味で、それは、まったくなんということでもないのです。


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