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私と個人主義

Posted: 2022.07.12 Category: ブログ

私と個人主義イメージ1

店主です。


個人事業主向けの指南書として、古典のようによく知られているマイケル・ガーバーの代表的な著作の中に、(最後の方にこそっと)「ロロ・メイ」への言及があります。現代社会を生きる人々の中で、ガーバーはともかく、ロロ・メイなどをまともに読んでいる人ははたして存在するのでしょうか。わたしも例にもれずその一人でしたが、ガーバーの引用の仕方に惹かれて、彼の書いたものを取り寄せて目を通していたのです。しかし、すぐにそれを中断し、読み返したのが漱石でした。取り寄せた本のページをめくっているうちに、夏目漱石の『私の個人主義』が、避けがたくあたまの中をよぎったのです。それは邦訳されたものの書物が難解だからだとか、翻訳がまずいからというだけの理由ではなかったと思います。このことは、(非常にうまい言い方で言う人もいますが)、実際にはあまりうまく言えないことです。しかしどちらにしても、わたしはロロ・メイから漱石へとリワインドする中に、あるひとつの心理学的な形式とでもいうべき事物のあらわれを見ました。それは非常に複雑で、多義的で、しかもクリアなものでした。


『私がかつて朝日新聞の文芸欄を担当していた頃、だれであったか、三宅雪嶺さんの悪口を書いた事がありました。もちろん人身攻撃ではないので、ただの批評に過ぎないのです。すると、「日本及び日本人」の連中が怒りました。私の所へ直接には掛け合わなかったけれども、当時私の下働きをしていた男に取り消しを申し込んできました。どうしても取り消せというのです』(『私の個人主義』夏目漱石)


漱石はあまりにも婉曲に、あるいは慎重にことばを選ぶので、(何度か読み返すという)繰り返しの中でようやく置かれたことばの喚起する、イメージの関係性というべきものが理解できます。おぼろげながら理解できます。とくに彼は、自分自身(私)を主語にして何かをいうべきときなど、とてもまわりくどく、用心に用心を重ねてことばをくちにします。つねに自分で言っていることを、自分で吟味しながらくちにするので、自分(漱石)から自分(漱石)が離れていくような感じがあるのです。つねにそういう感じがあるのです。


『私は高等学校へも出ました。大学へも出ました。後では金が足りないので、私立学校も一軒稼ぎました。その上私は神経衰弱に罹りました。最後に、くだらない創作などを雑誌に載せなければならない仕儀に陥りました』(『私の個人主義』)


明治期に公費で英國留学まで果たした理論家(セオリスト)が、結果なぜ「くだらない創作」(と本人が読ぶ)、つまり小説を書く仕事に就かなければならなかったのか、それはよくわかることでもあり、同時によくわからないことでもある何かです。よくわかるていで話を進めれば、漱石は概念に立ち向かうとき、自分の意見を自分で吟味し過ぎて、結局固有名詞(登場人物)を連れて来て語らせなければ、何も言えなくなってしまったようなところがあると思います。というか、そういう形式を借りたところに何かが切り拓け、創作の推進力が生まれた側面はあると思います。文学論(漱石)から小説(猫)へ。鍵は、ポリフォニーです。あるいは、アレゴリーです。しかし、この手の内容に関しては、この雑文の主題ではありません。わたしは、ロロ・メイにしろ、夏目漱石にしろ、なぜ心理学的に怜悧なひとたちが、最終的に「個人主義」をとなえるに至っているのか、そのことを考えていました。漱石も(直接的にでなくても)語っているのが、個人主義というのは、非常に取り上げるのが難しい何かであるということです。あるいは、非常にくちにするのが微妙な何かであるということです。なぜなら、世間一般に言われている個人主義というものは、ほとんどが利己主義だからです。あるいは、個人主義を説明しようとすると、ほとんどすべて利己主義としてしか理解されないからです。直接は言えないのです。概念としては言えないのです。概念としては言えないので、固有名詞(個人)として、(あるいは)「仕儀」として取り返すしかないのです。


『現代人にみられる孤独という感情は、自分が「局外者であるという気持ち」、孤立している状態といわれる。あるいは、もっと堅苦しい表現だと、疎外感とも呼ばれている。自分たちにとって、このパーティやあの晩餐会などに招待されるということがどんなに重大なことであるか、そういうことが力説される。実際に出かけるにしても、人はパーティや晩餐会などにとくに出たいというのでもなく、またそうした集まりの中で、楽しんだり仲間を作ったり、体験や人間的なあたたかみを分かち合いたいというのでもない。往々にして、そこで人びとは楽しむどころか、単に退屈している』(ロロ・メイ)


漱石は、そのことをよくわかっていました。彼は『私の個人主義』の中で、一度も概念としての、イズムとしての個人主義に触れていません。その上で、「私の」個人主義を言おうとするのです。あくまで、私(夏目漱石)という、固有名詞がそれを語るのです。ここにそれ以上のものはありません。概念については、非常に結束的に、あるいは高圧的にしか言えません。非常に結束的に、あるいは高圧的にしかあらわれません。それは、「三宅雪嶺への批判の取り消し」のような形でしかあらわれません。そこに存在しないものこそが、「個人主義」なのです。結束主義に隠された個人というのは、逆説的ですが、もっとも利己主義でもあるのです。そして、繰り返しますがそこにはない、決してそこに存在しえないものが、「個人主義」です。


『私は常からこう考えています。第一に、自分の個性が発展出来るような場所に尻を落ち付けべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ、一生不幸であると。』(『私の個人主義』)


個人主義がもっとも現実的で、実際的で、かつクリアであるのは、このあたりに関わる時ではないでしょうか。個人主義が生きられる瞬間があるとしたら、この場所以外にはほとんどありえないのではないでしょうか。実際そのことは、振り返ってもじつに「くだらない創作」(漱石)というべきものかもしれません。もしかしたら(「個人」という字義相応に)、とてもみすぼらしい何かかもしれません。日本語でもっとも小説が書けた人間が、自身の実践に対して漏らした感想がそういうものなのです。わたしは漱石がうっかり漏らしたものと同じ種類の形容詞を、コーヒーとかいう(なんだかよくわからない)ものに対して感じています。コーヒーについて、あるいはコーヒーに関して、「コーヒーとは」などとくちにする人たちの高級さが、あるいはそこで取り出されるコーヒーというものの概念がよくわかりません。本当によくわかりません。これほどよくわからないものはないというくらい、よくわかりません。(わたしが思うに)コーヒーは概念として取り出されるのではなく、個人によって、あるいは固有名詞として、個人的に取り返されるほかないようなものです。そしてそのことは、(こう言ってよければ)、みすぼらしさを含んだ、じつに「くだらない」(漱石)何かの動きです。はっきりしない概念(コーヒー)を、出来事として取り返そうとするひとつの動きです。自分のしていることは自分では見れませんが、(無理矢理いうのであれば)わたしのしていることは、おそらく何か、そういうことです。


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