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自然について

Posted: 2022.02.16 Category: ブログ

自然についてイメージ1

店主です。


以前も同じようなことをこの場所に書いたと思いますが、夏目漱石に関するお気に入りの評論というものがいくつかあり、時々ひまをみてそれらを読み返しています。その中でもわたしがとくに気になり、折にふれて読み返しているもののひとつに、夏目漱石が「自然」という言葉をいかにふくよかに言い得ていたかを丁寧に検証している論評があります。もちろん、ひとくちに「自然」といっていますが、漱石が言葉をくちにするときにはおそろしい洞察の深さが貫かれており、それを覗こうとするのはとても大変なことです。評論ではなくて、わたしが漱石自身の書いたもの(作品および発言集成)の中で(おそらくたぶん)もっとも気に入っているのは『 』(無題)というタイトルのものですが、その作品には、漱石にとってのことばの「定義」についての論考が見え隠れしています。その意味で、とても面白いものです。


『私はかつて或所で頼まれて講演した時、「日本現代の開化」という題で話しました。今日は題はありません。分らなかったから、こしらえませんでした。 その講演のとき、開化の definitionを定めました。開化とは人間の energyの発現の径路で、この活力が二つの異った方向に延びて行って入り乱れて出来たので、その一つは活力節約の移動といって energyを節約せんとする吾人の努力、他の一つは活力を消耗せんとする趣向、即ち consumption of energyです。この二つが開化を構成する大なる factorsで、これ以外には何もありません』(『( 無題 ) 』夏目漱石)


漱石が definition という言葉をいうとき、わたしはなにかのおそろしさを感じます。言葉についての、なにかのおそろしさを感じます。言葉に向けて、(そして)言葉によって、かろうじて「definition」(定義) というとき、そこに何かのおそろしさを感じます。物事を深く洞察し、綿密な判断を下す過程で単語のひとつひとつが選ばれていることが、(前後の文脈などによって)徹底的に貫かれているのがよくわかるからです。彼が「自然」というときも、単純明瞭なものとしてその言葉が選ばれているわけではありません。それとは正反対の(奇妙な)流暢さで、漱石の小説の中では、登場人物たちがよく『「私の中の自然が。。」』などといいますが、あれはまったく単純な意味ではないのです。


『材木っていうのはさ、つまり志賀直哉が、(自然主義で)あれだけやったやつが発見したのは、植林した山なんだよ』(中上健次)


たとえばわれわれが一般的に自然だと思っているものでさえ、多くのひとびとが非常な労力を持って管理し、手を入れ、ようやくにして作り上げたものであるということは、あまり指摘されることがありません。雄大で、木々がびっしりと生え揃った美しい自然など、まったく「自然」ではない何か、むしろ「自然」とは正反対の何かです。(しかも、それらについては、一般的には誰もが自然だと思っています)。こういうものは、漱石のいうような「自然」ではありません。せいぜい人間の意識が規定できるような自然です。そして、それらはすべてどこか「不自然」なものです。


では漱石にとって「自然」ということばの definition は何だったのでしょうか? それを簡単にいうことは、あるいは、正確にいうことは大変に難しい問題です。というか漱石はロンドン生活などからひもとけば、それらを正確にいえないから、あるいはそもそもいうことができないから、理論家からかろうじて「作家」になったという節もあるわけです。わたしは学生時代(かろうじて文学部でしたが)、その漱石の感じたであろうあまりの絶望感を察してから、ほとんど何かを言ったりだとか、何かを書いたりだとかができなくなってしまった時期がありました。そのことはともかく、それでもあえて漱石が「自然」と呼んだものを何かでいおうとするのであれば、それは主体性や、意識、意味というものの「対義語としてしかあらわせない概念」(ソシュール)とでもいうべきものなのでしょう。漱石のいう「自然」とは、おそらく何か、そういうものです。それは決して、けちな自然主義や、ナチュラリストのいうようなけばけばしい、あの「不自然きまわりない」自然とは、まったく無関係のものです。


わたしは、このあたりのことについてずっと考えていました。射程距離の問題ではないのかもしれませんが、どれくらい昔から同じようなことを考えていたのかもわかりません。(年末にも書いたかもしれませんが)これは非常に、「倫理的」な問題だと思っていました。なんともいえない、倫理的な問題だと思っていました。あほらしい出来事が現実で頻発したから、ふたたび嫌でも考えざるをえなかったというだけの理由ではなかったと思います。そういいながらも現実に引きずられた出来事もいくつかはありましたが、ともかくずっとそのことについて考えていました。くりかえしますが、わたしはこれは道徳的(つまり一般的)な問題ではなく、あくまで倫理的(固有的)な問題だと思っていました。あるいはこれは、一般名詞の問題ではなく、固有名詞の問題だと思っていました。しかし、漱石はもっと徹底的に「反対」だったと思います。漱石の「自然」は、道徳の反語である倫理どころか、無私(無視)なのです。固有的どころか、則天去私なのです。


『親切だ、配慮があるとして「よい」とされているものの、望んだ結果を得られないことが多くある。たとえば、共産主義が、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」としていることのように。
自然はそれを「悪」と見なしているようだが、私は「自然」に同意したい』(レイ・ダリオ)


「正しさ」「親切さ」「よさ」などというものが、時や場所、場合によって意味がまるきり変わってしまうということは、人間が証明していることではありません。そうではなくて、それは歴史が証明していることです。そして、それは「自然」です。


ではこれらのことは、人間がどう「意識」すれば「よい」ことなのでしょうか? われわれが日々に問われていることは、時期を見極めることや、環境を見極めることばかりではなく、その上であらわれるあらゆる「不自然さ」と、どこでどういうふうに折り合いをつけるかということのように(わたしには)思えます。そして、それは、本当にきついことです。あまりにもきついことです。漱石のいう通り、見つめたら自分が死んでしまう以外ないような、本当にどぎついことです。なぜなら、それは「自然」だからです。しかし(というか)間違ってもここで(フェアトレードだとかオーガニックだとか)固有名詞的なことを口が裂けても言うつもりはありませんが、人間の意識が規定出来る程度の自然に、わたしは意味があるとは思えません。


わたしは、「自然」に同意したいと思います。


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