カフェ・アダチ ロゴ

 

店舗情報

11:00 – 17:30 L.O. 17:00
金曜定休

敷地内禁煙

© Cafe Adachi

ブログ

Blog

見境のこと

Posted: 2022.04.27 Category: ブログ

見境のことイメージ1

店主です。


知人のくちから「哲学カフェ」ということばを耳にして、レンガであたまを殴られたような衝撃を受けました。どうしてそれほどうろたえたのかはわかりません。わたしは哲学ないし「哲学的な言及」ということについて何かを書いたことがあるので、よく考えてみればそれほど衝撃を受ける必要もなかったのかもしれません。そもそも、こういう振り返り方も奇妙なものです。なぜなら、わたしは学生時代(と呼ぶことに正当性は存在しない出来事でしたが)、哲学に関する書き物を読むために勉学を志した(結局それは「文学」に逸れたうえに、恥ずかしいようなかたちで挫折しましたが)ことがあるくらいなので、問題の出来事に対してまるで免疫が無かっただとか、そういうわけではないのです。


関係的なことを色々とくちにしていますが、わたしにとってそもそも「哲学」というのは、ある学問的な領域を区分するラベルではありません。むしろ、「領域」だとか「ラベル」だとか、そういうものを無効化するようななにかです。その意味では、「形容詞」ですらないと言っても良いでしょう。一方で、わたしは「コーヒー」というなにかに対して、そのことばが形容詞的に機能する領域を押し広げるところに、自分自身の活動を見出しているところがある気がします。こういう甘い感じは、いつかどこかでツケをはらうことになるかもしれません。あるいは、そうでもないかもしれません。いずれにしても、わたしは「哲学」という、これほど受け取り方の幅があることばを、ほかにあまり知りません。定量的なことを言い過ぎているのかもわかりませんが、「哲学」という、ひとにとってこれほど意味の受け取りの幅が大きなことばをあまり知りません。文学、ということばなどもそうかもしれません。あるいは、コーヒー、ということばもそうかもしれません。


しかし、ある意味で、「哲学/カフェ」というのは、いまのところのわたしの人生そのものだという気持ちもします。まったくどちらも無関係に思えるのに、そのどちらも、わたしの人生そのものでもあるという気がするのです。これは少し、奇妙なことに思えます。「カフェ」だとか、「コーヒー」だとかいうよくわからないことばはともかく、「哲学」ということばは、わたしにとってはむしろ「原理」ということばに近いようななにかです。哲学とは、少なくとも、自身が「主体的」に、「客体性のある」ものの見方や考え方に、深く関わるというなにかのことに思えます。そのことは、なんとなくそういうふうに思えるものです。


しかし、「主体」というのはなんなのでしょうか? 「自分」ということばと同じように、それは、書きつけられた時点で、あるいは取り出された時点で、「客体性」を持ってあらわれるほかありません。『権力への意志』の著者がくちにしたように、意識された主体はすべて自分から離れているのです。それは、すべて「客体」です。あるいは『ドストエフスキーと父親殺し』の著者が示したように、「無意識」は取り出された時点で、すべて「意識されたなにか」でしかないのです。「覗かれたもの」は、すべて「除かれたもの」です。認識が「自分」をふくんでいる以上、ここから逃れられるすべはないのです。わたしは、(なので)、自分がよく見ようとするものにたいしては、目をそらしながら見るというほかに「原理」を持ちえません。ですので、たまたま(本当にたまたま)職業的に関わりあいになった「コーヒー」とかいうなにかのことも、目をそらしながら見るよりほかありません。それは、見ることであって見ないことで、見ないことでもあるのに見ることなのです。


関連記事

Categories

Latest Posts

Archives

← 戻る