店主です。
(ここ半年くらいのうちにだと思うのですが)、自分がかつてものを考えるときに頼りにしていたひとたちがこぞって鬼籍に入るなどしたためいくらかの動揺を隠せないまま日々を過ごしていたのですが----近々そのなかのひとりの音楽家が、晩年(といっていいと思う時期)に受けたインタビューのうちに「これから(死ぬまでに)折口と柳田を読みたい」、とくちにした箇所を読み----自分は黒雲の中に稲妻が光るのを見たような気持ちになりました。彼はたしか文学者ではなかったはずなのですが、わたしは彼の文学的な物事の見方のセンスを、非常に透徹されたものだと感じていましたし、いくらかの影響を受けて育ったと思います。彼の父親が高名な文学関係者だったということもあるし、このことに奇妙な符号を探すと、彼の娘さんのお婿さんも、彼の父親と同じ職業をしているのです。
それはともかく、わたしはそんなふうにして、文学者ではないのにとてつもなく文学的な感性や才覚に優れたその世界的な日本人音楽家が、古今東西の文学作品におそろしく精通した彼が、死ぬ前の読書に折口信夫と柳田國男を選んだ(選ぼうとした)という事実に、人知れず衝撃を受けたのです。問題の人物は、おそらくほかの誰よりも、テクノロジーとコンテンツというものに対してその最先端で認識鋭く格闘していたひとです。そういうひとが、(ただの読みものであるとしても)、人生の最後的な境地として前述のふたりを挙げたことは、自分にとってあまりに興味深いものでした。とくに最近、(なのかどうかはわかりませんが)、わたしは対面でいくらかのコーヒー業界の人たちと、あるいはコーヒーの仕事をしているひとたちと、自然言語処理についての話をする機会がありました。それからほどなくして、さけがたく(とくに)柳田國男のことを考えずにいられなかったので、これはなんというタイミングだろうと思ったのです。
『コーズ・エフェクト(原因があって結果があるという思考)は、まさに英語的なレンガ積みの積み重ねの思考ですね。けれども、実際の世界はそうはなっていないはずなんです。AIに代表されるアルゴリズム的思考は、ロゴスのレンガを積んで、仮想世界という壁を築き、その中に閉じこもろうとしている感じがします。でも、それは幻想ですよね。経済も同じで、人間の脳が考えた仮想としての無限を宇宙の有限性の中に持ち込んで、無限に成長する、儲けるということを考えているわけですけれども、本当にバカバカしいと思います』(『音楽と生命』坂本龍一)
知性(それも圧倒的なもの)が、テクノロジーとコンテンツの極北にあるような認識が、死を間際にして柳田と折口にかえるというのは、どういう意味なのでしょうか? わたしはそれについて、現在進行形に、いくらかの時間を使って考えています。個人的な感想のことをいえば、柳田はデリダであり、折口はフロイトなのです。しかし、いまのわたしではこれ以上このことを書くことができないし、坂本龍一氏が死の間際に折口と柳田を選んだことは、それ以上のなにかがあるようにも思えるものです。とはいえ現実には、GTP某と呼ばれるもののコーヒーに関する知見などをひとから吹聴される日々などをやり過ごしつつ、目の前のコーヒー豆を焼いたり、目の前のコーヒー淹れたりしているだけです。
『実際、今こうやって会話していること自体、言葉という分断と固定化の道具を使って、思考を投げ合うしかないわけです』(坂本龍一)
わたしはあらためて自分のしていることについて、何かの思いを馳せます。そして、静かにコーヒーを淹れ、ゆっくりとくちに含むなどします。そういえば今日は誕生日でした。