店主です。
仕事の仕方だけをとるとあまり重なるとはいえない同世代のコーヒー屋さんの話を聞いて、考えていた事がありました。われわれが仕事をする上で、現在コーヒー生豆の購買をめぐる状況はある種の「豊かさ」があり、その気になれば世界中の希少条件のコーヒーを買う事ができるということ、そして「豊かさ」はそのような「選択肢」にあらわれているということ----といういかにも悠然とした話を、既視感で目眩がするような気持ちでしたのです。
選択肢が増えている----というのはどちらかと言えば何かが途方もなくなっているだけで、コーヒーというものは本質がすでに途方もないという点から見返すと、なぜそのような発展が単純な豊かさと結びつきを見せるかはなかなか興味深い話だと思います。周りを見れば本来なら危機的なほど神経を研ぎ澄ますしかない場面において、豊かであるかどうかという点だけで物事が捉えられている状況と、ある一定数のコーヒー屋の中で「選択肢」の多さがさも「先端」のように捉えられている事実は、個人的には何かの覚悟を迫られているようにも思えるものです。ここまで書いたすべての内容が、私には豊かさよりむしろ決して解決できないような絶対的な「貧しさ」、知識や意識、それをめぐる意味の「貧しさ」、人生というものの本質的な「貧しさ」、それこそ選択肢そのものをめぐる「貧しさ」、そういうものとコーヒーとの、避けられない結びつきを思わせるものです。
私がコーヒーを「豊かさによって癒されることのない、ある絶対的な貧困」をめぐるものとして捉えるのは、生産国を訪れて見た決して交わる事のない引き裂かれた平行線を記憶しているからだけではありません。そこにはコーヒーを条件にし、その周りを生きていた人々の忘れえぬ姿があります。繰り返しの日々の中何度も浮かぶのは、コーヒーとは極限まで選択肢の無い条件でこそ生きられ、かつ極限まで選択肢の無い条件でこそ、どこからか生きてくるものだという信心のような思いです。