店主です。
先頃コーヒーの生豆に関して、精製段階の加工とその許容範囲について、他人といくらかの議論をする機会がありました。わたしは「議論」ということばを使いましたが、正確に言えば自分の考えを述べたり、他人の考えを批評したりして、対象について深く論じ合うということをしたわけではありません。もっと抑制の効いたものがあったような、やりとりのうちに「察しの良い沈黙」(プルースト)があったような、そんな記憶の時間です。いずれにしても、わたしは目の前のそのひと本人がくちにしたわけではない、コーヒーの生豆の「精製段階の加工とその許容範囲」について、いくらかの所感をおぼえつつ、一方ではどこか呆気に取られるような気持ちでした。
コーヒー生豆に対する「加工」といえば、わたしは焙煎ということばをまっさきにあたまに浮かべます。焙煎というのは、コーヒー生豆からすればあきらかに「加工」なのです。しかし、そのときにくちにし合った加工にまつわる事柄は、焙煎に関してのものではありませんでした。俎上に上がったのは、こういうものです。それは(何やらよくわからない話になるかもしれませんが)、酸素に触れない状態で活動する微生物の働きで有機物を分解するという方法をもちいるなどして、コーヒー生豆にいくらかの香味の効果をもたらすという加工でした。コーヒー生豆に対して、くわえるものがコーヒーチェリーなのか、あるいはそうでない果物や別のなにかであったりすることが、大きな違いとして捉えられているなどという話もありましたが、わたしはそこまで仄聞したあとで、いわく言い難い「範囲」とでもいうべき概念がふわっとあたまに浮かんだことを認めるのです。ここで問題となる「範囲」というのは、コーヒーの味わいに対するある程度まで人為的な加工をどこまでを良しとするかという、素材論的な許容範囲のことではありません。コーヒー豆に対して職業的に関わりを持つ人たちが、自身の商売にとって有利になるようにことばをくちにしているような、なにかそういうふうに見える「範囲」のことです。じつに微妙な、ある領分のことです。そうこうしているうちに、わたしには「フレーバーコーヒー」という概念があたまに浮かんだりもします。あるいはもっとシンプルに、砂糖だとかミルクだとかいう概念があたまに浮かんだりもします。しかし、それは焙煎と同様、やはりコーヒー生豆の「後」の話です。
コーヒー生豆の「前」に話を戻すと、わたしは一連の話は、あたらしくあらわれた加工のことだと思っていました。コーヒーチェリーの果肉にコーヒー生豆を付け込もうが、コーヒーチェリー以外の果肉にコーヒー生豆をつけこもうが、あるいはもう少し気を利かせてそれに似たなにかをしようが、これらは素朴な形での、あたらしくあらわれた加工のことだと思っていました。良し悪しだとか、それ以前の感想の話です。そしてそれ以降の話については、「範囲」をめぐって人が良し悪しだとかをくちにするのを前に、どこか足踏みの感覚をおぼえたりもするのです。わたしはこれは、職業的にコーヒーに従事している人間の「範囲」の問題だと思っていました。あくまで、個人的な「範囲」の問題だと思っていました。そして足が止まるとき、なにかの微妙な感じがあるのです。焙煎という行為を無効化するほど喧しく素材そのものの優位性を謳っていた人たちが、生産国の気候風土による精妙な味の違いが生豆「前」の加工によって無視されてしまうというふうに、自身の商売にとって有利な「範囲」でことばをくちにする様子に、どこか固まってしまう感じがあるのです。それは、「加工」の問題です。人は自分にとって有利なことは黙っておくのに、自分にとって不利なことには、反射的に、あるいは加工的にことばをくちにせずにはいられません。そしてこれは、対象の物事が本質的であるかそうでないかということとは、また少し種類の違う問題です。
本質的であるかそうでないかという話をするのであれば、例えば(コーヒー生豆を)方法的にコーヒーの果肉に付け込むことに関しては問題がないというスタンスを概ね貫いている人たち(COE)が、コーヒーの果肉以外のものにコーヒー生豆を触れさせた瞬間、なにかの資格があるだとかないだとか、それがコーヒー的であるかコーヒー的でないだとかいうようなお墨付きをめぐる限定的な議論していることは、あるいはそのことについてある方面のひとたちが微妙な顔つきでなにかを言わされたり、察しがたい沈黙の態度をさせされたりというのは、子供の喧嘩とそのまわりにある出来事のような話です。総じて、どこか子供っぽい話です。そういうときなど、わたしは(立場上気持ち良くはなかったとしても)、問題の液体に砂糖とミルクをどばどば淹れた、「白茶色のお湯」でも飲めば良いのに、と思います。
ちなみに、わたしはほんの少しだけ、ブラックコーヒーのほうがまだ受け入れられる感じの趣向を持ちます。なぜなら、コーヒーは、ある意味でただのお湯だからです。