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それ自体のコーヒー

Posted: 2023.08.13 Category: ブログ

それ自体のコーヒーイメージ1

店主です。

セオドア・レビットは、彼の(触ると手が切れそうになる)『マーケティング論』の中で、ヴェルナー・ハイゼンベルクの不確定性原理を引用しました。

『(不確定性原理によれば)、我々が何かの現象を観察すると、観察するという行為そのものが原因となって、現象に変化が起きるという。物理学の例で言うと、原子を観察することによって、原子の位置や動く速度が変わってしまう。経営においては、ある人がある状況に対処するだけで、行動の中身が何であろうと、状況に影響を及ぼすことになる。別の人が経営の舵を取れば、また違うかたちで影響が及ぶ。そうなれば、対処の仕方も変えるべきであるし、実際に変わるはずである』(レビット)

現象が、観察者によって(観察という行為によって)純粋な現象そのものではなくなるという理論は、ある意味で科学的なものです。しかし、このことは、認識論としては18世紀ごろのドイツですでに言われていました。(細かな違いはあるとしても)、「知覚できることと現象そのもののずれ」という内容の指摘は、『純粋理性批判』以降、見慣れたものです。そこでわたしは、なにかがおかしいぞ、と思います。人一倍思想史に通じたレビットが、彼の経営学理論の中で、あえてそのことを言わないでいるのはあきらかなのです。わたしはあくまで、これは認識論の側からのズレの指摘ではなく、(経営における)ある現象そのものにとどまろうとしたすえの言及なのだろうと思っていました。それがどうということはありません。著者の持っている、言うべきことと言わないでおくべきことの鋭感の良さを感じるだとか、それくらいのことしかありません。ふえんしていうことがあるとすれば、単純な「現象それ自体」だとか、「認識それ自体」という考え方は、いくらか危険に思えるということです。この危なさは、ひとの物の見方・考え方にもろに関わる危なさです。これはハイゼンベルクが指摘した通り、観察行為が対象(現象)の純粋さを壊すということの危なさでもあるし、あるいは、思想史がいつもはまったり、抜け出したり、はまるふりをしたり、壊すふりをしたりしてきた危なさでもあるのです。とくに、わたしは自分が職業的に(否応なしに)関わる「焦茶色の苦い液体」に関して、現象のゆらぎが無視された「それ自体」というものの神秘と、それを支えているのに同時に覆い隠してしまうような(マルクスにとっての貨幣価値のような)やっかいな物事のあり方のことをいつも感じるのです。

『言明は、単純明快な主語と述語の倒置ではありえない。「正義それ自体」や「脱構築それ自体」というようなものは「存在する」ものではない。リアルな存在者としても、イデア的な存在者としても、また人であれ、物であれ、秩序であれ、体制であれ、なんであれ、とにかくそういった「あるもの」として現前的に存在しうるものではないのである。「脱構築は正義なのである」(La deconstraction est ja justice)の「である」は、現前的に「存在する」ことのありえないものを、存在動詞の、直接三人称現在形で語っていることになる』(『ジャック・デリダ 法・正義・暴力』)

コーヒーもこういうものではないでしょうか? もしコーヒー「それ自体」なるものがある(と見做されている)のだとしたら、それはなにかのあるもの、すでに存在している(と仮構された)もの、取り立てて言うこともない、ほかのなにかに(たっぷりと)依存しているのです。全てから切り離された「コーヒー」などありえません。「コーヒーそれ自体」というものに関する、あるいはそれそのもののつよすぎる見方は、いつも「大したものでないがゆえにあまりに強力ななにか」(ゴダール)に下支えされています。上部構造に対する下部構造のように、必ずなにかに下支えされています。軽挙妄動に訴える行き過ぎた高付加価値付けだとか、あの人はコーヒー業界の偉い人だからだとか、この生豆は85点を取ってるだとか、そういうなにかに下支えされています。それが「人であれ」「物であれ」「秩序であれ」「体制であれ」「なんであれ」、かならずなにかあるものに依拠しているのです。「それ自体」なるもののつよさに有無を言わさぬコーヒーであるほど、本来こうした構造をはらんでいるのです。しかも、それは「究極」だとか「純粋な」だとかいうことばの前にいつも隠されてしまいます。

とはいえわたしは「コーヒー」が何かはよくわかりません。それは、(デリダの言明するように)、コーヒーが「単純明快な主語と述語の倒置ではありえない」からかもしれないし、あるいは「コーヒーそれ自体」という考え方になじめないからないからかもしれません。しかし、このことはそのまま終わることはありません。ここまできたときに、コーヒーはいつのまにかコーヒーに重なろうとします。コーヒーそのものに重なろうとします。決して重なれないのに、無理やり重なろうとしたりするのです。

『不徹底をこえて形式化を突き進めようとするときに立ち現れるのは、形式体系が自らの上に折り重なり、自らを根拠づけようとする、奇妙なループにほかならない。言語について語るのが言語であり、数についての命題を符号化して表現するのが数であり、商品の価値を表示するのがもともと一商品にすぎない貨幣であるというループ』(『戦争の記録』)

この「奇妙なループ」は何でしょうか? わたしにはよくわかりません。わかることといえば、コーヒー「それ自体」について、なにかを語ろうとすればするほど、(コーヒーとは関係の無いない場所で)、語る「その人自体」がコーヒーそのものになってしまうということです。どうも、そういうところがある気がするのです。というか、自分ももしかしたらそういうことがあるかもしれないし、自分以外のひともなにかそういうところがあるかもしれないのです。コーヒーがコーヒーについて語るというのは、おそらくそういうことです。いずれにしてもひとが「言明」(デリダ)する「コーヒー」など、結局「コーヒー以外の形」で姿をあらわすしかないのかもしれません。(マルセル・プルーストの言う通り)「ただのお湯」だとか、そういう風に姿をあらわすしかないのかもしれません。そしてそれは、「コーヒー」でありながら、「コーヒー」ではありません。いうならば、それがコーヒーだと思います。「正義それ自体」だとか「コーヒーそれ自体」などというふうに「現前的に存在するものではない」(デリダ)なら、それがコーヒーだと思います。

一方で自分はもしかしたらこころのどこかで、究極に確かな「コーヒーそれ自体」に触れたいと切望しているのかもしれません。もしかしたら、本当はそう思っているのかもしれません。。痩せ我慢をしているのだとか、そういうことではありません。これは日々焙煎を頑張っているからだとか、抽出を頑張っているからだとか、あるいはべつに頑張ってもいないんだけどなだとか、そういうこととはまったく関係ない種類のものです。「究極の一杯を飲んだぜ」とかいう年長者たちの「純粋」な「理性」に触れると、少しだけ「変な気持ち」(梶井基次郎)になるのです。これは、本当にそうなのです。しかし同時にやはり、コーヒー「それ自体」に触れる機会など永久に訪れないことも、自分個人としてはこころのどこかでわかっているところがあります。死ぬまでそういうものを見ることはないということは、どこかでわかっているところがあります。なぜなら、「人であれ」「物であれ」「秩序であれ」「体制であれ」「なんであれ」、なにものにも依らないコーヒーなどどこにもないし、胡乱なものを切り捨てた「コーヒー」などどこにもないからです。

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