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コーヒーと歴史について

Posted: 2022.11.06 Category: ブログ

コーヒーと歴史についてイメージ1

店主です。


自身の仕事の範疇をこえる出来事ではありませんでしたが、コーヒーの歴史について調べる機会がありました。コーヒーとその歴史については、先人たちによってあまりに多くのことが言われており、いまさらわたしなどが入る隙間はどこにもありません。必要のない文言かもしれませんが、そのことについては、なにか「恨み」すら覚えるほどです。コーヒーの歴史は、日本語であれば著者名さえ間違えなければきちんとしたものが読めると思います。あるいはこのことは、翻訳者名でも同じことかもしれません。気をつけなければならないのは、言葉の新しさの刺激のまわりにむやみに人が集まっていないかという点と、それを著している人物が、言葉の新しさの刺激のみによってエクリチュールが掻き立てられていっていないかという見極めです。わたしは博捜とでもいうべき資料の読み込みの作業を通して、何度か首傾げの感覚に陥りました。(奇妙な言い方になりますが)コーヒーの歴史について考えることは、「コーヒーの歴史」について考えることでなく、「コーヒー」と「歴史」について考えることでもあるのです。そのときのあいまいな気分を無理やりにでも言おうとすれば、固有名詞に返されるテクストのあり方と、線的な「歴史」の意味の強さについての、なにかの混相でした。こんなふうに言えればそれまでですが、この辺りの問題は、それこそ過去に偉大な(哲学者のような)人たちが、沈黙も含めて多くの態度でのぞんでいた部分があると思います。だいたいどこを見ても、まずは沈黙なのです。しかし、わたしの拙い疑義の湧出なり、書き言葉の生産なりは、なぜだか止まることはありませんでした。


わたしは急におもいたって、ヴィルヘルム・ヘーゲルを読み返そうと思い、その通りの時間を過ごしました。ヘーゲルに関していえば、『論理学』よりも『精神現象学』よりも、わたし個人には『歴史哲学講義』がもっとも身近に感じられます。この書はヘーゲルの弟子らが編纂したものですが、ヘーゲルがもたらした世界のニュアンスをそのままあらわしているという意味でも、アーカイブとしてのヘーゲル自身をもっとも支持し、かつ、実存主義的にはもっとも裏切っている本であると言えます。しかし、わたしが気になっているのは、ヘーゲルの築き上げた体系や思想そのものというよりは、ヘーゲルが持っていたように見える、あるいはそこを皮切りとしたものの見方のことなのです。彼は『精神現象学』の中で、絶対知(アーカイブ)の手前に「神」を置きましたが、神が人間の精神(知覚)によって存在しているという風に言われたのは、歴史上一応あたらしく、そして少し、奇妙なものでした。そこで「神」ははじめてそれまでとは質的に異なる形で、歴史的に相対化されたのです。固有名詞として相対化されたのです。


神という絶対的な概念が斜陽化する一方で、歴史という概念がそれにとって替わるパラダイムシフトは、『歴史哲学講義』にとどまらず、ヘーゲルのテクスト全般にあらわれているひとつの気分です。(現在の)われわれが「神」というとき、たとえばギリシア世界ではゼウスがおり、ローマ世界でのユーピテルがおり、ユダヤ・キリスト世界のイエスがおり、という程度のことは簡単に言えるでしょうが、これらはある程度ヘーゲル以降にしか出てこないものの見方です。もちろん世相や、宗教的な抑圧の軽重によって測られる内容もあると思いますし、通観はいくらか危険なことかもしれません。しかし問題はそのしゅの詳細ではなくて、歴史的・地理的な傘下において、すべての固有名詞がぶら下がっているという、ある時期からそう見えてしまうこの乗り越え不可能な絶対知(アーカイブ)の感覚です。ただ、そのなにかは本来神だろうと絶対知だろうと、どう呼ばれてもどうでも良いことなのです。どうでも良くないのは、固有名詞が共同体の中で形容詞化し、意味は言葉や貨幣と言う代補によって表象される「商品」(マルクス)でしかなくなるという、現在までつづく現実の方でしょう。プラトンが現代に生きていたら、イデアのことはたんに「名詞」と呼んでいたでしょうが、しかしその程度の認識も、分析哲学のローカルな目録に刻まれる、歴史的・地理的意味を超えるものではありません。この部分は、本当に強力なのです。もちろん、このことに気付いていた人たちもいました。「歴史」に対して、横断をこえた態度でのぞんだ人たちが存在していました。それはひとつ、本当に複雑な知性によって、白い布の前で灯りが弱まるなかかすかにあかるみにされたことでもあるのです。


『そんなことは一度も経験したことがありませんでした。歴史を持たない世界が、にもかかわらず物語ることで時間を過ごしていたのです。しかも、読むことの外部で。というのも、書くこと(エクリチュール)とは、ランボーとマラルメ以来、恐怖だったからです。白い頁は敵でした。どうして、ジョイスと『ドゥイノの悲歌』の後で、さらに書かれねばならないのでしょう? それに対して、白い布の前で明かりが弱まりはじめたとき、われわれに起こったことは、ニコラ・ド・スタールを自殺に追い込んだことのちょうど逆でした』(『映画と歴史について』ゴダール)


テクノロジーによって白い布の前で灯りが弱まりはじめた(=映画史のはじまり)ことが、われわれに何も語れなくなる世界をもたらしたのでしょうか。「ちょうど逆」(ゴダール)ではなくて、結局ニコラ・ド・スタールが自殺したのと同じように? 映画が哲学を終わらせた、というような考え方が正しければ、それはその通りというほかありません。よく(ではないかもしれませんが、一部で)言われる通り、二十世紀が映画による哲学の敗北の世紀だったというような言説が正しければ、そういうことだと思います。しかし、先の引用文の著者も(書き方によって)十分にあらわしている通り、テクノロジーがコンテンツを肥大化させているのではなく、本当はテクノロジーがコンテンツという概念を産んでいるのです。たとえばそれは、「神」や「歴史」、「インド・ヨーロッパ語族」といったようなコンテンツを。このことは、ナポレオン・ボナパルトやクリストファー・コロンブスといった、あるいはヨハネス・グーデンベルグという固有名詞によってもたらされたテクノロジーが、「地平」という概念をこえられなかったかたちで証明しています。繰り返しますが、ヘーゲル以降「神」なる固有名詞でさえある形でそうなったように、固有名詞は共同体の中で形容詞化し、意味は言葉や貨幣と言う代補によって表象される「商品」(マルクス)でしかなくなっただけです。物事がたんにコンテンツとしてしか機能していない以上、固有名詞が形容詞になっただけです。たとえば、カフェ・バッハだとか、堀口珈琲だとか、丸山珈琲だとかいうように、固有名詞が、形容詞になっただけです。このことは、じつにたわいもないことです。商品価値だとか経済性だとか、その程度のことばの周辺にあるような事柄です。それ以上のことはありません。(しかし)、だからこそ、とてつもなく強力ななにかでもあるのです。


コーヒーを仕事にする上で、歴史は避けることが出来ません。しかし本来、それはコーヒーだけにとどまらないものです。同時に、歴史という融通の利かないものの逆方向に、オーセンティック(真正のもの、れっきとしたもの)という概念が生まれていることにも、いくらか注意が必要でしょう。わたしがオーセンティックというとき、それは原型の本質のことではありません。「抽出される本質」のことなのです。たとえば小林秀雄は彼の秀逸なドストエフスキー論の中で、「歴史は人類の巨大な恨みに似ている」とい言いましたが、これこそまさに本質を原型だと捉える、象徴的な言い方です。一方、ジャン=リュック・ゴダールは『右側に気をつけろ』という映画の中で、同じドストエフスキーの本を読み、なぜ相好を崩すのか? そこには、抽出せずにはいられない「本質」があるからです。「原型」から遠く離れ、積み重ねられてきた出来事があまりに多く、「巨大な恨み」(小林秀雄)のようにある以上、(というか)、だからこそ本質を抽出してみせなければならないはずです。「歴史」が人類の巨大な恨みでないとしたら、本当は何なのでしょうか? ある意味、歴史とは、はっきり言ったとたんに、あるいは武器にしたとたんに嘘になるようなものかもしれません。ソシュールのことばをもじれば、「歴史は語る主体とともにしかない」。しかし、(というか)、だからこそ「態度」が決まるのです。


『映像には嘘をつかなければならない理由はなにもありません。たしかに、映像に嘘をつかせることはできます。でも、映像というのは、ひとつの事実にすぎないのです。ひとつの事実の、ひとつの要素にすぎないのです。映像に嘘をつかせるのは、映像の使い方なのです』(『映画史』ゴダール)


わたしはゴダールが「映像」と言った場所に「歴史」ということばを置いて、あるいは「コーヒー」という言葉をあてはめて、これを何度か読み返してみたいと思います。ここにあらわれている「使い方」という語は、非常にファンクショナルに見えるものです。そしてそれは「原型の本質」(形而上学)ではなく、「抽出される本質」にかかわります。そういうものの見方、考え方なのです。

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