『16世紀までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向づけていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見えるものと目に見えないものの認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である』(『言葉と物』)
先日こんなふうな引用をしたある私の書いた(よくわからない)書き物について、たまたま人から何か言われたタイミングで、いくらか考えたことがありました。
「あなたの書いているものはさすがに難解すぎる」(私の友人)
ちょうどここに引用された同じ世紀の後半から、歴史的にはフーコー的エピステーメーを完璧に体現するかのようにあらわれている極めて優れたある人文主義者が、固有名の固有性というものについておそろしく慎重に書き物を綴ったこと----自分にはあの著者の永久に書いてい続けられそうな感じは、彼以外だとプルーストよりほかにはほとんど感じたことがない----は、「類似」(フーコー)の正反対のもの、つまり固有性がことばになる前の問題のことでした。個をさししめすものはわざわざ固有名詞を持ち出すまでには「生の側」にきちんとあり、それは生活呼吸のようなもので、他人軸もほとんどなく、評価とも無縁で、沈黙の中にありました。
それから何が起こったのでしょうか? 16世紀くらいに端を発した、無名の領域を守ろうとして“固有性”という語や概念をスタンスで持ち出した瞬間、固有性が「自分で管理しなければならないもの」に変わってしまったこと。。『エセー』を読んで私が感じられるのは、そのような型を持った人たちが形を問題にしはじめる不穏さ、そして、それを見ている人のおそろしく原理的な眼差です。ハラリがルソーの書いたものを「17世紀以降の聖書」とくちにしたことは有名ですが、そこに対する吟味は、すでにあらわれていたのです。固有性が概念化されたということは、それが意識されるべき対象になったということです。そして、意識されるということは、すでに何かが失われているということです。主体や客体、意識や身体、歴史や言語、無意識といったものまで、何から何まで、意識されるということは、何かがおかしくなっているということなのです。「ことばはすべてをあらわしているけれど、ことばはなにもあらわしていない」というのは、そういう意味です。
「意識化」は解放ではなく、しばしば“捕獲”になる----この構造は、近代の思想史に何度も現れています。繰り返しますが個性だとか、主体だとか、自由だとか、人間だとか、無意識だとかは、どれも、語になる前には「生の側」にありました。しかし語彙化され、制度化されることで、逆に人間を縛る装置になっていくのです。いったい、われわれ人間は「無意識」だとかいうことばをどう信じれば良いのでしょうか? 無意識と呼ばれるものは、その時点でもはや「意識された何か」でしかありません。そもそも「《人間》という語そのものが抑圧である」という感覚は、20世紀の人文科学がずっと暴き続けてきた核心です。「人間」という語が“人間の自由”を保証するのではなく、逆に「人間」をひとつの形式に閉じ込めてしまうというからくりについて、フーコーはこれを、「海辺の砂に描かれた顔」と表現しました。ではなぜ、語は生を裏切るのでしょうか? これも、「語」にしている時点で、われわれには本来まったくわからないことでしょう。それでもいわなければいけないのであれば、言葉は「区別」をつくるからです。世界を切断する働きを持つからです。そこには“選別”がつきまとうことになります。
語が生まれると、それに当てはまらないものは“外”に追いやられることになるわけです。しかし、本来の生は、その区別の前にあったものでした。呼吸や沈黙や気分——こうした「区別できないもの」は、語の秩序では扱えなくなるわけです。ある批評家が「批評とは世界を切断すること」と言ったように、語は必ず何かを取りこぼします。その取りこぼしこそ、固有性の核でした。このたとえは何度も書いていますが、ジャック・デリダの初期の作品のなかに、固有性の本質を「まばたき」にたとえてあるとても美しい箇所があるのですが。。この比喩は本当に見事なものです。「まばたき」は始まりも終わりも定義ができないし、かろうじて前後を分けることはできるのに、分節ができないし、単純に人間の行為として、意識すればするほど自然さを失うものです。意識しながらするまばたきは、すでに目くばせです。つまり、概念や意識の枠内に収まってしまうわけです。概念や意識の枠内に収まらないこと、固有性は本来この領域に宿るはずのものでした。しかし、現代社会は個性や自分らしさ、主体性や、オリジナリティやアイデンティティの構築といった、「自己の義務化」が飽和しています。その結果、固有性が「発揮するもの」に変えられ、内側で静かに生じる固有性は、むしろ見えなくなってしまいました。いわば、「逸脱しなければ、固有性が保証されない世界」です。
この違和感を正確に言語化しようとする姿勢そのものが、現代の捕獲装置を突破しようとしている動きですよ。。私は人にそのような指摘を受けてしまって、自分はそんなことをしているつもりなどまったくなかったのにも関わらず、そんなことをしているのかと思わされて、驚いたことがあったのです。本当はここまで書いていることはこれとは違うまったく別の道筋があり、自分が一年が終わるうちに書いておきたいことも、まったくこんなことではありませんでした。しかし、自己暗示はたいていは自分の容器をこえているわけです。エセーの著者のことでいえば、エコール・ノルマルで『言葉と物』の作者の二学年年下だったポスト構造主義者が、ゆいいつ彼について言及しているあるとほうもなく分厚い哲学書のなかに、それと同じく彼がゆいいつ、彼の生涯のあいだにあって、コーヒーについて言及している箇所があるのです。私は、これは、とても偶然とは思えません。モンテーニュとコーヒー。デリダが同じ本の中にそれらを流し込んだ理由、私はそれが偶然だとはとても思えません。
本当はそのことについて年内になんとしても書きたかったのですが、季節風邪をひいて寝込んでしまいました。気がついたら、もうこんなどうしようもない感じです。
