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亡命者のコーヒー

Posted: 2023.04.09 Category: ブログ

亡命者のコーヒーイメージ1

店主です。

コーヒー焙煎をしていると、----というか、(もっと正確に言うとすれば)、コーヒー焙煎が仕事の主部であることを前提にしているひとたちと、同業者ということばに規定される条件のうちで会話をしていると、なにか「孤独」のことを思います。なにかつよい、孤独のようなものを感じるのです。それは(細かいことは別にしても)、そういう場面において、お互いに会話が通じないからだとかそういうことではありません。むしろ会話は通じるし、内容は繋がっているのです。わたしが問題にしたいのは、それでも感じられるような、なにかからぷつんと途切れた感覚のことです。ぼんやりと自覚的になるにつれ、わたしはこの気持ちがコーヒーの本質そのものにある他人と自分を隔絶させるニュアンスから来ているのかもしれないとも思いましたが、どうも違うようです。

こういう思いは、急な湧出ではなく絶えずつきまとっていたような気がします。ちかごろとくに「この感じは何なのだろう」、と思ってしまいますが、(自分勝手に感じているとしかいえない)この言い難い孤独の正体は何なのか、つたないなりに色々と考えてみるのです。正面から見てもよくわかない、この感じの正体はなんなのか。。もしかしたら、「孤独」とは正反対のもの、共感だとか共鳴だとか、そういうものとして捉えたほうが、ニュアンスは近いのかもしれません。それというのも、この感じは(勝手にそう思っているにしても)、自分が話すコーヒー屋さん、あるいはそう呼ばれる人たちの心象風景でもあって、(あるいは相手をスクリーンにした自分自身の心象風景の投影なのかもしれなく)、何かが集まったり、なにかが広まって行くことに対しての静かな違和感でもあり、そしてそれは孤独であるばかりか、もっと根源的に罵倒されるような弱さに関わっているとも思うのです。

ひとはなにかをはじめようとするとき、「強さ」だとか「強み」だとかを拠り所にするべきだといわれることがあると思うのですが、その言われ方は、集められた概念のようなものです。聞いていれば、じつに結束的な言われようです。何が言いたいのかというと、わたしが思うのは、コーヒーを孤独にやっているひとたち(あるいは個人的にそう感じるひとたち)は、コーヒーに強みがあるから、それを職業にしているという感じがしないということなのです。必要な断りかどうかはわかりませんが、少なくとも自分自身はまったくそうではありません。その様子はむしろ、(自分だけかもしれませんが)、弱すぎてしょうがないという感じに近いのです。コーヒーがあることで、コーヒーによって、自分の「弱さ」や自分の「どうしようもなさ」が隠される気がするから、あるいは世間からそれが隠されている感じがあるから、うまく隠れようとしている。なんとなくそういう節があるのです。


【カーフィル(英語: Kafir, アラビア語: كافر)】
イスラム教信奉者(ムスリム)が非ムスリム、若しくはムスリムでも自らと意見の異なるものを罵倒する際に用いられる言葉


カフワ(コーヒー)の語源かもしれない(といわれる)カーフィル كافر という語には、「罵倒されるもの」を指す以外に、「なにかを隠す」という意味もあるのです。コーヒーは、もしかしたら本質的には罵倒されるぐらいしかない人間が、世間からゆいいつ姿を隠せるなにかかも知れないのです。こういうものはおそらく、参考にしたり、参照されたりしながら広がっていく出来事とはあまり関係がないという気がします。わたしの違和感の正体はそこにあります。コーヒーのことで、職業的にその姿を見るべき人の傾向が完全に「カーフィル」なのに、観察者からはどこか賞賛的に、あるいはじつに開放的に捉えられたりしている側面があるのです。「弱さ」と「隠れ方」のこと(カーフィルのこと)は、あまりよく見られていないのです。これは、大したことではなかったでしょうか。くわえてこういうものを指摘することに、あるいはこういうふうに指摘されるものごとに、優位性などはありません。渦中の当人たちにとっては、このことは少しも「自由」ではないのです。なぜなら、「弱さ」が「隠れ」たところで、それが他人とは関係がないということでは済まないし、誰からも邪魔されることなくコーヒーの仕事をしていても、おそらくそれはただの何でもないものになるからです。

『かれらはひとに邪魔されることなく、なんでも自分がしたいと思うことをしています。そして実際には、それは大したことはなにもしていないということです』(ゴダール『映画史』)

コーヒーの世界にあってのものなのか、そうではないのかはよくわかりませんが、わたしも、基本的にはひとりぼっちです。好んでなのかそうでないのかはわかりませんが、ひとりぼっちです。理由は。。集められた出来事のあとにある、物事の広がりを欠いた姿に強烈な違和感を感じるからかもしれないし、あるいはそうではないかもしれません。理由がどうとかではないのかもしれません。

いずれにしても本当はもう少し落ち着いた気分でこのことを考えたいのですが、今日もひとりで大量のコーヒー豆焙煎などをしないといけなかったため、これ以上のんきなことを考えているひまがありませんでした。

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