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無限大と0の翻訳

Posted: 2023.12.15 Category: ブログ

無限大と0の翻訳イメージ1

店主です。

年末に向けて、というと大袈裟な言い方になるかもしれないのですが、なにかがどんどんへんてこになっていくのを見ていて、ぽかんと口をあけたような気持ちで日々を過ごしていました。自分が目にしているものにたいして、なんだかへんてこになっていってるなぁ、と思っていましたが、ひとつ注意が必要なのは、へんてこになっているのはそのなにかではなく、どちらかといえば「それを目にしている自分自身かもしれない」(ハイゼンベルク)ということです。本来こういう感想は自分の勘違いかもしれないので、あまり気にせずにおこうとか、くちにせずにおこうと思ってギリギリ耐えていたのですが、そうこうしていたら、「同じ理由」を発端としたへんてこな出来事が想像もしていないすぐ近くからはじまったので、顔面からいきおいよく机に突っ伏すような気持ちでした。

しかし、どうもこれらの出来事は、いつも繰り返し人生にあらわれてくるような気がするものです。たとえばそれは、無限だとか、そういう概念の近くにあるような気がするのですが、、自分はこれの翻訳をよく試みようとしています。言いにくいこれらのことを、なんとか翻訳しようと試みています。というか、もしかしたら自分がコーヒーでしようとしているのは、この無限とかいうことばの翻訳なのかもしれません。人は自分ではそうだとは思っていなくても、無限なる感覚によって、どんどんへんてこになってしまいます。無限というのはむしろ、可能性、とかいうことばに翻訳したほうがわかりやすいかもしれません。しかし、それではだめかもしれませんが。。なにが言いたいのかというと、わたしは(かろうじて)コーヒーを仕事にしている人間なのですが、コーヒーというのは、この「無限」とかいうものへの批評がある気がするのです。この一点だけ、この一点だけなら、自分はコーヒー(とかいうなにか)を、ほんの少しだけ信じてもいいだろう、と思っているのです。このことの証明かどうかはわからないのですが、かつてある人があるコーヒーを称して、「0から無限大を移行する」というようなことをくちにしていました。我が意を得たりということばは、こういう時に使うのだろうと思ったほどです。それは記憶の中でも、別の機会に一度だけありました。これとまったく同じことばは、かつて二〇世紀のとりわけ優れていた映画作家が、「映画」というものに対してまったく同じように使っていたのです。つまり、「映画は0から無限大の移行に関わる」というように。わたしはその時、ゴダールの言った「0」というのが、「零度のエクリチュール」(バルト)だとか、そういう感じのニュアンスのものなのだろうと捉えていました。実際コーヒーのまわりには、マルセル・プルースト的としかいえないなにか(無意志的記憶、印象の変貌、心の間歇、不在と憧憬など)があります。そういうものは、確実に存在します。それからしばらくして、わたしはそればかりではなく、この「0」というのは、たとえばソクラテスの言っているような(無知の知、のような)感覚のことなのだろうとも思いました。無根拠の根拠だとか、ああいう感覚のことなのだろうと思いました。しかし、コーヒーに対して「実務」として関わりをみせたとき(0と無限大に触れた続けたとき)、自分はこの感覚が具体的にどんどんことばに出来なくなっていくのに、完璧にこれらの意味(0と無限大)がわかっていくという、おかしな感覚に陥ったのです。それは本当に、うまくいいあらわすのが難しいような錯覚でした。

実際には、0か無限大か、現実にどちらかの物事を見ているのだと思いました。コーヒーの世界には、無限大というものがあまりにも多く存在します。「無限大」という想念を発端とした物事が、あまりにも多く存在します。カップオブエクセレンスだとか、スペシャルティコーヒーだとか、カッピングシートだとか、データロガーだとか、ドリップスケールだとか、コーヒーの世界史だとか、事業買収だとか、サスティナビリティーだとか、そういうものはすべて「無限大」に裏打ちされているなにかです。「無限大」を過剰に恐れたり、人質にしようとしたりするなにかです。一方で、それとは反対に、完璧な「0」を標榜しているものもあったと思いました。それは他者とのコミュニケーションを遮断したような深煎りや、ネルドリップ至上主義などにみられるあのニュアンスです。しかし、多くの場合、この「0」はほとんど形容詞としか捉えられていないような気もしていました。というか、こういう構図でしか捉えられないのであれば、実際にはなにも「0」でないのだとわたしは思ってもいました。たとえば「0」がもし「無限に何もない感覚」としか捉えられていないのであれば、ことばのかたちは違っていても、それは結局「無限大」となにも変わらないのです。わたしは、このことは自分でもよくわかっていないのに、間違いのない考えでもあると思っていて、ではいったいどこで誰とどうやって話せばいいのだろう、「0」はどこにあるのだろう、本当に「0」を探すのであればどうやって生きていけばいいのだろうなどとわけのわからないことばかりずっとひとりぼっちで考えていました。しかもこのことは、「労働」に直接の関わりがあるのです。あるいは労働と労働のあいだに、直接の関わりがあるのです。そしてわたしは自分がいつのまにかこの「無限」に(あるいは「0」に)毒されてしまって、わけのわからないへんてこなコーヒー屋になってしまったらどうしようだとか、そんなことに対しても、なにがしかのおそれを抱き続けていたのです。そんなおりに、ふたたびいつものように(もう人生でいったいその時間をどれくらい過ごしたのかというように)ゴダールの映画史を目にしていたのですが、、その中にこんなことばを見つけました。圧倒的でした。それは、こういうものです。

『労働と労働の間には、どのような関係があるのか、ということを知る必要があります。ひとは自分にできることをするのであって、自分がしたいことをするわけではないのです。特別なことはなにもしないでいようとするやり方は、今でもまだ私の原則になっています。私が思うに、こうしたやり方はより単純なやり方で、しかも、これまでのとは違ったなにかを可能にするやり方です。つまり、こうしたやり方は、自分がしたいと思うことではなく、自分にできることをすることを可能にするやり方だということです。あるいはまた、自分にできることを手がかりにして自分がしたいと思うことをしたり、不可能なことをしようと夢見るのでは全然なく、自分が手にしているものをもとにして、自分がしたいと思うことをしたりすることを可能にするやり方だということです』(ゴダール)

「0」の不在性だとかを言うよりも、いまはこういう言い方が、自分の翻訳しようとしていた気分に一番近いと感じます。

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