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飲み物と飲み物のあいだ

Posted: 2023.06.13 Category: ブログ

飲み物と飲み物のあいだイメージ1

店主です。

このごろ雨が降ります。梅雨なので当たり前なのかもしれませんが、街に出て傘をさしたり、庇の下で傘を閉じたり、そういうことに合わせていくつかの印象的な出来事が起こります。自分を取り巻く出来事がゆるやかに変化したり、どこかしら風の通り方が違ってきているような他人との交流の機会を得ます。他にもふだんくちにしている飲み物が違うものに変わったり、あるいはそれを抽出する人が自分ではなくなってしまったり、特定の人に向けた印象が以前とは変わってしまうことなどが、退屈しない日々を約束しているようです。傘の話でいえば、個人事業主に向けた経営の相談所だとか、職業的に従事しているある飲み物についての教習の場など、自分で招いたほとんど暴風雨のような催しの内側にいて、ふたたび傘をさすようにある本を読みはじめた事については、近々どこかで書いたような気がします。わたしはその著者に関しては、本を読むという感じがしません。「わかる」という感じもありません。おそるおそる開いて見る本のなかに自分が子供の頃からずっと考えていたり、感じていたりすることがあって、いつまでも彼がそういうことを覚えてくれているという、一方的な気分があるのです。

『(事物そのものというような)直接性は、派生したものである。すべては中間、「あいだ」からはじまる。これが「理性にはほとんど理解したがたい」ことなのである』(『グラマトロジーについて』)

しかし、「わかる」というのはどういうことなのでしょうか? 職業柄、人に向かってなにかを教える(というよりは誰かや何かの真似事をして過ごしている)とき、冒頭で触れた暴風雨の内側にいるときにおぼえる台風の目のような印象を禁じえないあの「何もない感じ」は、「言っていること」だとか「わかる」だとかの実体のなさを、痛いほど身にしみさせるものです。そういう場所にいて、わたしは苦笑いをしながら、静かに傘を閉じます。こういう物事がそのまま投影されたのが、わたしにとってジャック・デリダというひとの読書体験です。そうして知らないあいだに彼が「根源の彼方に」という副題のつけられたある難解な書物の中でルソーを引用しながら繰り返している、「直接的なものは間接的に、事物(そのもの)はあいだから現れる」というようなものの見方とそのニュアンスについて、迷路のように迷い込んでいることに気がつきます。

わたしは、自分が職業上にくちにふくむことになる、ある焦げ茶色の(あるいはもう少し濃赤色の感じがしたり、漆黒の黒色に近かったりもする)微妙な液体の有り様が、まさにこれらのニュアンスに転写されているような気がするぞ、と思うのです。職業上接する「微妙な液体」についての、酸味があるだとか苦味があるだとか、あるいはもう少し違うなんとかだとかいう感想は、わたしにとって飲み物そのものに向けられた印象、ないし「事物(そのもの)」(デリダ)に向けられた印象とは違っています。そういう印象はむしろ、「あいだ」(デリダ)からあらわれている気がするのです。先ほどわずかにくちにした酸味だとか苦味だとかいう何かのたとえも、個人的には焦茶色のお湯だとかの「事物(そのもの)」にではなくて、それらを取り巻くなにかの出来事や、「事物の関係」(ヴァレリー)のほうに強い印象として感じるものです。コーヒーの味は、わたしにはよくわかりません。味があるのかもよくわかりません。しかしコーヒーの周りには、味わいがあります。その液体がやりとりされる場所には、たしかに味わいがあります。苦みを感じさせる、苦しいなにかがあります。腐敗したような酸っぱさや、吐き出すしかないような苦味があります。そういうものは、例えば、「御三家とか括ればいいってもんじゃない」と言うと「そうですよねホントは四天王ですもんね」という反応が出て次の言葉に詰まるだとか、そういう出来事にあらわれていたりするのかもしれません。あるいは、もう少し取るに足らないような出来事にあらわれていたりするのかもしれません。

ともあれ、「関係」についてくちにするのは非常に難しいものです。関係といえば、あるフランス人映画作家が彼のベラスケス論の中でエリー・フォールを引用し、『われわれは事物そのものではなく、事物の「関係」を見なければならない』と、くちにしたときの困難のことを思い出します。しかし、あれは本当はポール・ヴァレリーの孫引きで、エリー・フォールがしたヴァレリーからの引用は隠されています。最終的な引用者がそれを二重に隠す必要があった困難は、自分が長く考えている事柄です。ここには、何かがあるのです。ともかく、「事物の関係」を見るということは、「関係」そのものが「事物」に見えることにすり替わってしまう、厄介な展開とともにあります。「関係」を見るというのは、ものすごいことなのです。「事物(そのもの)」(デリダ)を避けて事物の「関係」を見ていたはずが、いつのまにか「関係」そのものを「事物」として見るようになってしまうからです。

人は、ここから逃れられないのでしょうか? デリダが「あいだ」と言い続けるのは、この錯覚のニュアンスをなんとか言おうとしていることに関わりがあり、ヴァレリーが「空白」だとか言ったものに関わりがあります。わたしは最近「無作為」とかを強調しているなにかの出来事に出会ったのですが、「選ばれた無作為」はすべて「作為」でしかないという事実に慄然し、ある液体を飲む手が止まってしまいます。このことは、言えないのです。事物としては言えないのです。でも、関係としてわかるのです。ここに要諦があります。

この感じをずっと考えているのですが、わたしは自分でも言っていることがよくわからなくなっているのかもしれません。デリダが面白いのも、一番盛りがってきたときにぷつりとそういう場面が訪れるところです。訪れる? 何にしても、今日も一日は訪れています。わたしは朝眠たい目をこするなどして仕事場に行くことになるのですが、そこでなにかが抽出されるための食品を加工したりなどし、奇の衒いもなくそれを液体にした時の味の感想だとか、始業時間だとか、凪のような気持ちだとか、あらゆる「事物」の「あいだ」に挟まれることになります。

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