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11月の迷宮

Posted: 2025.11.14 Category: ブログ

11月は不思議な月で、毎年本を読んでいると、ふいうちにあいます。あるいはこれは私の気分的なものかもしれません、年の終わりが近いているという、ただの気分的なものかもしれません。今年はボルヘスのエッセイを読んでいて、不意に胸の奥を叩かれるような一行に出会いました。「私が記憶を所有しているというより、私は記憶の方に所有されている」。反転の鋭さに、思わずページを閉じてしまいました。

記憶というのは、自分の中にしまっておく引き出しのようなものだとどこかで思い込まれているものかもしれませんが、実際にはこちらの思惑とは無関係のところで突然立ち上がり、気づけば歩く人の方向すらわずかに変えてしまうようなものです。こうした“記憶のほうが先に動く”ような感覚は、思えば昔から私の中にあったものでした。自分で思い出したのではなく、記憶の側がふいに私を呼び寄せる。ボルヘスの一行は、その構造をあまりにも自然に言い当てていました。

私はときおり、コーヒーを淹れることに関して、能動ではなく受動的なものを感じています。もちろん、手を動かしているのは私ですし、湯の温度を決め、粉の量や落とし方を調整しているのも私です。しかし、それは“作る”というよりも、すでにそこに生まれつつあるものの輪郭に、そっと手を添えているだけだという気がするものです。その日の空気やお湯の揺れ、豆の状態や人の気配、それらのほうが先に物事を構成しはじめ、私はただその立ち上がりを乱さないように息を合わせる、そんな感じがあるのです。私が所有しているのではなく、コーヒーの側が私を所有している──そんな言い方すらできるような気がします。

実際一杯のコーヒーには、はじまりも終わりもありません。焙煎する時間と抽出する時間は別物に見えて、どこかでひとつの流れになっていて、その流れの“ある瞬間”を、私が手で掬っているだけです。昨日と今日で豆の顔が違うように、それに合わせるこちらの気配も、日々少しずつ違います。そのわずかな差が、ふとした拍子に、思ってもいない方向へ味を導いていきます。こちらの意図からわずかに外れたはずなのに、なぜかその一杯が透明な部分を持つ。測量的には誤差と呼ばれるこの揺らぎが必然のように思える時、私は「これは私がつくった味ではない」と思いますし、むしろ「私が作られている」とさえ感じます。

『迷宮とは、記憶が自らの姿を忘れぬために用意した、ささやかな演算装置である』(ボルヘス)

自分の意思で進むつもりが、いつの間にか別の道に導かれ、そこで自分の形が変わってしまう迷宮。。私にとってのコーヒーは、これにとてもよく似ています。私はコーヒーを管理するのではなく、ただその側に導かれている者であり、たんなる日々の作業だと思っていたことが、物事の輪郭を小さく、しかし決定的に変えることがあるのです。

「先回りしてくるものに従う」、一見それは不思議なことですが、どこか安寧的でもあります。仕事に向かうとき、私は“技術”のための時間に入るのではありません。どれだけ自分を騙そうとしても、そういうものではありません。むしろ世界のほうが先に用意しているわずかな調子に応えながら、手元にいくらかの焙煎豆が生まれたり、一杯の飲み物が生まれるのをなんとなく見守っているだけなのです。

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