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cafe jinba さん

Posted: 2022.05.29 Category: ブログ Comment: (0)

cafe jinba さんイメージ1

各務原ホドナラフさんの間借りカフェで、「cafe jinba」さんが夜カフェをはじめてみえます。


不定期ですが、とても素敵な空間ですので、気になる方はぜひチェックしてみてくださいね。

cafe jinba さんイメージ3

ドリッパースタンドビスケット

Posted: 2022.05.27 Category: ブログ Comment: (0)

ドリッパースタンドビスケットイメージ1

THE GIFTS SHOP さんで、ドリッパースタンドビスケット販売中です!

※アダチでの販売は。。もう少しだけお待ちください
m(_ _)m

禁忌と寓意

Posted: 2022.05.18 Category: ブログ Comment: (0)

禁忌と寓意イメージ1

店主です。


時折わたしが「抽象力」という、ずいぶんあいまいかつ頼りないことばを使ってなにかを言うとき、あるいは、そうやってなにかを言おうとこころみるとき、ある程度まで頼りにしているのは『資本論』です。カール・マルクスの、『資本論』という著作です。


『価値形態、その完成した姿である貨幣形態は、はなはだ無内容かつ単純である。にもかかわらず人間の頭脳は、二千年以上も前からこれを解明しようとつとめてきてはたさず、しかも他方、これよりはるかに内容ゆたかで複雑な形態の分析には、少なくともほぼ成功している。なぜだろう? 成体は、体細胞よりも研究しやすいからである。しかも、経済的形態の分析においては、顕微鏡も、化学試薬も、役に立たない。「抽象力」が、両者にとって変わらなければならない』(カール・マルクス『資本論』)


「抽象力」というと、いつも「それは具体的ではない」だとか「あなたの発言はどこか具体性にかける」という「ような」こと(直接そのようなことではない)を(ものすごく少数のひとびとに)言われてしまいますが、そのたびにわたしは伝わらない物事の数をかぞえるのみです。結局のところ、(言わないとは思いますが)、「どちらかといえば、それはむしろ反対のことで。。」などというふうに、簡単に言ってしまった方が早いのかもしれません。つまりあいまいに見るためではなく、顕微鏡よりもよく見るために「抽象力」が必要なのです。


顕微鏡よりもよく見るために、抽象力が必要である(マルクス)。この感覚は、わからないひとにはとことこんわからないと思います。わからないひとがだめだということではありません。その反対かもしれません。むしろ、(あえてなのか本質的にかどうかは判別がつかないですが)、一般的にこのことをよくわからないひとが、あるいはそういう身振りの洗練された人が、「学問的」であるとか、「アカデミック」であるとかいうふうにいわれたりもするくらいです。大学でマルクスに関わる人たちが世界中あわせて過去にも未来にもどれくらいいるのかわたしにはわかりませんが、マルクスは少なくとも(彼自身ちょっとふざけすぎたという点がなかったわけでもないですが)、その後の反動的な生真面目さによって取り返しがつかない程度には、アカデミズムに縁はありませんでした。そういうものに、縁がなかったのです。そしてこの事実は、まったくどうというともありません。このあたりの話は、ただそれくらいのものなのです。しかし、マルクスのように真面目に語れないわたしは、いつもそのことばを問題にするとき、つまり「抽象力」ということばを俎上にのせるときに、大きなとまどいを禁じえません。だから、本当は「抽象力」という言葉より、もっと良いことばがあるはずなのです。たとえば、それは「創意」というようなことばです。あるいはそれは、「寓意」というようなことばです。


『「コーヒーの誕生」という言い方が何を意味しているのかを改めて吟味しておく必要がある。というのも、今日、世界中で似たような響きで呼ばれているコーヒーという名称のもとになったアラビア語のカフワという言葉は、コーヒーが現れる以前から存在していたからである。混乱をおそれず書けば、カートもカフワであり、ワインもカフワであった。したがって、「コーヒーの誕生」というのは、後にコーヒーと通称されることになる、あのアフリカのブンと呼ばれる豆を使って作った飲み物が、アラビア語の「カフワ」という名称と結びつき、イスラーム文化圏に定着することを指しているのである』(『スーフィズムのコーヒー』)


たとえば、こういう文章には「創意」(グールド)があります。あるいは、「寓意」があります。なので、抽象力というのが「具体性」の真逆だと捉えられるうちにあっては、わたしはむしろ積極的に「寓意」ということばを使って、なにかを言ったりだとか、書いたりだとかするべきなのかもしれません。その方がまだ誤解は少ないはずだからです。しかし、「寓意」ということばには注意が必要です。それは、なにかを積極的にいうことだとか、なにかを積極的に捉えるだとかいうことと、基本的にずれている感覚だからです。わたしは、むしろこういったもののあらわれてくる「感覚」のほうに、取り出されたり切り取られたりする事物そのものよりも、よほど興味があります。この「感覚」は、なにか「慎み」だとか、「自己韜晦」だとか、そういうことばによって(かろうじて)捉えられるところがあるようなものです。


『カフワ(Qahwa)はqとhとwの子音からでき上がっている。これを語根(root)といい、母音を表記しないアラビア語では、この語根(root)がすでに特定の観念を呼び覚ますのである。この場合には「何かへの欲望を払う、少なくする、慎む」であるという。アルコールのワインも、覚醒剤めいたカートも、コーヒーも、一点において共通している、それは食物への欲望を払うのである』(『スーフィズムのコーヒー』)


わたしはこの「欲望を払う」だとか「少なくする」だとか、「慎む」だとかに、「寓意」というものの「寓意性」を見ます。それは、禁忌の感覚です。しかし、禁忌ということばそのものにある禁忌性のごときものによって、そのさきをいうことは阻まれてしまいます。しかし、コーヒーにもこういうところがある気がしないでしょうか? あくまで気がするだけですが、そういう気がするということは、たとえばこういう文章などによって(ある程度まで)あらわされています。


『珈琲を知りつくすことはできない。珈琲の珈琲性は、それほどかぎりないものである。ここまでが珈琲、これが珈琲の本質と、簡単に取り出して見せることができるくらいなら、それは「珈琲」とは言えない」(武田泰淳)


武田泰淳は、もちろん「珈琲」について直接語ったわけではありませんでした。なのでこれはわたしの「寓意」です。あるいはこれは、わたしの「創意」です。しかし、ここにあるのも、こういう形で取り出してみられるものも、結局のところやはり「寓意」の感覚、あるいは「禁忌」の感覚ではないでしょうか。わたしは、(なので)、コーヒーについては、(語る気持ちもありませんが)結局ほとんど何も語れません。せいぜいゆびをくわえたまま、禁忌と寓意の感覚を思うことくらいです。そしてある意味で、それは、まったくなんということでもないのです。


たまごサンド

Posted: 2022.05.15 Category: ブログ Comment: (0)

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美濃市 Cafe香さん

たまごサンドがとても美味しいです。
(お出汁の味が絶妙な。。)

ご興味ある方はぜひ食べてみてくださいね(^^)

直接的なものとコーヒー

Posted: 2022.05.07 Category: ブログ Comment: (0)

直接的なものとコーヒーイメージ1

店主です。


ある場所でサム・ウォルトンという人について話をしたとき、それを少し疑問に思うということで、人からどういう了見かというふうに言われたことがありました。おとずれた機会に経営者をひとり取り上げることがあったのですが、わたしはいままでそういう機会があったとき、彼のこと以外を人物として取り上げたことがありません。しかしそのときは、問題の人はコーヒー屋さんというわけではないし、それがどうしてあなたの事業に関係があるのか、というふうにも言われたとも思います。なんで関係があるのか、というふうに言われたと思います。あるいはもう少しだけなにか考えた(かもしれない)人には、とくにわたしのやっている事業とは規模も違うし、規模に対する考え方も違うのに、という所感もあったのかもしれません。


サム・ウォルトンという人は、経営者という肩書きが一番つよい意味を持っているから、わたしもそのようにいうし、そういう場所で取り上げるのですが、本当は人物的に魅力があるのです。つまり、発言の内容に魅力があるのです。たとえば、彼は商人(マーチャント)になってもっとも良かったことはなにか、と聞かれたときに、「(もし商人になれているとしたら)、ようやくこれで自分は、本質的な意味で政治的な発言をしなくてよいこととなった。それが良かった」と言ったのです。彼の世界にあること、小売業にまつわるニュアンスだとか、自身を取り巻く出来事への直接的な言及だとか、そういうことをいっさいいわないでそういったのです。わたしはそれを読んだとき、言葉の取り出され方もそうなのですが、ここまで洞察の深い人がいるのかととても驚いた記憶があります。


彼が「(商人になって)これで政治的な発言はしないでよくなった」というとき、政治というのが何をさしているのか、にわかにはよくわかりませんが、たとえばこういうことはないでしょうか。政治を問題にするとき、(問題にすることを)否定したところで、政治的な立場をとらない、という政治性がある、というようなことがないでしょうか。あるいは、「歴史的な立場をとらない、というところにある歴史性」(ヘーゲル)というようなことはないでしょうか。あるいは、文化的な立場をとらないという、圧倒的な文化的貢献なども同様です。わたしはなにか、そういうもののあらわれにとても惹かれるのです。これらは一般的にはよくわからない、「間接的なもの」をめぐる問題です。あるいは、とてもアレゴリカルな問題です。しかし直接的でないことは、立場がなくなることではないのです。この意味がわかるでしょうか。あのオクラホマ出身の世界的な経営者にものすごさがあるとしたら、そういうものだと思います。わたしは、そこに「政治」ということばだけを置いた彼のことを、本当に信頼できると思ったのです。それは言葉そのものだけを取り出したときにはわからない、「関係の問題」も含まれているから、同時にです。


直接的であるとか、間接的であるということは、過去にコーヒーに関してもほとんど同じことを書いたことがあります。かつ、わたしはいまもとてもそのことを気にしています。あるいは、中途半端に気にしています。近々露骨に「直接的」な出来事に出会ったからだとか、そういうことだけが理由なのではありません。「くわしさ」が嫌なのです。しかしこのくわしさというのは、いわゆるくわしさとは少しだけ種類が違うものです。この反目は、ウォルマート創始者が「政治」に対して言及回避を問題にしたことと、形式的になにかが似ているものです。あるいは『ドイツ・イデオロギー』の著者が、彼の主著の冒頭で「抽象力」と呼んだなにかにとても近いものです。ふえんすれば、共通の深慮として、彼らは(まったく逆方向の実践に収斂されていたとしても)「商品」というものに対する異常なまでの洞察力がありました。


『商品の常として、コーヒーもまた率直な物言いをしない。その言い草は思わせぶりで、まわりくどい。商品は、社会の価値本質をそれ自体で透かし見せる象徴的な存在なのではなく、それが直接表現できない価値本質の方向を、別のことを語りつつ、指さすアレゴリカルな存在であるという、商品特有のひねこびた性格に由来するのであろう』(臼井隆一郎)


「商品的」にそうなのかどうかはわかりません。それをいうには、わたしは(あたまなのか立場なのかはよくわかりませんが)あまりにも「弱い」のです。しかしわたしは、(それこそアレゴリカルな意味で)、コーヒーのまわりにある直接的なもの、あるいはくわしさを、ぬかるみのごとくなるべく避けるように歩いています。そして、例外はあれど基本的な意味で、いまもそうしていると思っています。


避けたところで、畢竟びちゃびちゃになるのがおちなのですが。


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