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コーヒー牛乳のあとで

Posted: 2025.08.23 Category: ブログ

公衆浴場をでたあと、時間つぶしの死ぬほどの退屈な時間のなかで、まだかすかに湿っているあたまに両手を組んで寝転がり、考えたことがありました。息子が何か飲みたいとせがむので、いくつかの硬貨を手渡したあとのことです。このごろあちらこちらでやたら「真理的」なことや「命題的」なことばかり言われたり問われたりしたことと関係があるのかないのか、そのことはよくわからないけれど、ものごとを立ち止まって考える時間があったのです。

時間ができたら読もうか迷ったあげく、家に置いてきた本のことは忘れていました。真理は「命題」の中にあるのではなく、むしろ矛盾した命題同士の中に潜んでいる----それは哲学的にいえば、「差異のある反復」のようなものです。というか、(いうなれば)、反復こそもっとも差異を生むものではないでしょうか? ぼんやりとした風呂上がりの男性は、自分が子供のころに読んでいたものと同じ漫画を何かの飲み物と一緒に手にして寝転がり、読みはじめた小学生の男の子を眺めながら、そんなことを考えています。「私は変わらないといけない」、という個人的エゴ程度から生まれた変化への動力は、それがどれだけ「変化的」であっても、結局のところ「閉じた反復」ではないのだろうかというように。実際その程度の意識の気づきで、変わろうとして動いた人が結局同じ場所をぐるぐるしているだけで、まわりの人たちから「あいつは表情を変えて何で同じ場所をぐるぐるしはじめたのだろう、しかもいつもより、もっとスピードを上げるなどして」、と思われていたりするということもあるわけです。

『反復は「同じもののコピー」ではなく、差異を強調し、変化を作り出す力を持つ』(ドゥルーズ)

「反復こそもっとも差異を生む」というのは、『差異と反復』の著者の言葉を超えて、日常そのものの本質を捉えています。人が「やべえ、、変わらなければ!」と焦って作り出していく変化は、往々にして自己のエゴから立ち上がる、「閉じた運動」です。これは、本当にひどい閉じ方です。この閉じ方によって、人はひどくかたくなになったり、自暴自棄になったり、カウンターテーブルをたたきつけて手のひらに痛みを感じたり、自身の大切なコーヒー屋を潰してしまったりするわけです。つまり、「意志」程度によって作為された“変化らしきもの”は、実は自分をぐるぐる同じ場所に閉じ込めるだけの「偽の差異」であるともいえるわけです。

その一方で、何気ない反復――たとえば、毎朝同じ道を歩いたり、同じ本を読んだり、珈琲焙煎をしたり、同じように焙煎豆を取り出して、ゆっくりコーヒーを淹れるなど――そういう行為には、ほんのわずかな何かがあります。というか、そういう行為からこそ、われわれが目をみはる差異がまったく好き勝手に生まれている気がしないでしょうか? 遠くからよちよち歩いてきて、近くにいるであろう親の姿をきょろきょろ探す、息子よりだいぶん小さな男の子の濡れた髪を見ながら私は考えています。環境にいることのわずかな違いや、気分のかすかな違いなど、そういった"出来事の意図しない差異”のほうがむしろ開かれていて、この世界をいくらか豊かに見せてくれるということは、ほんの少しだけ意識したときに気がつくものです。だからこそ、反復というのは、閉じているどころかもっとも開かれているものであるともいえるわけです。

つまり、私が問題にしたいのは、エゴから生まれた「変化の強迫」としての閉じた反復ではなく、日常に委ねた「自然な反復」、差異を生む開かれた反復のほうなのです。エゴ的な「変化」や「意識」が支配した瞬間、反復は自閉し、差異を失ってしまう。そのことは、自分がいま非常につよく痛く感じていることです。それは、本当に感じていることです。そしていつのまにか家に置いてきた本にも、おそらくそんなことが書いてあったはずなのです。

コーヒーについて考えていたわけでもないけれど、考えごとの終わりに息子がようやく漫画を閉じて、お風呂上がりのコーヒー牛乳を飲み終わります。ここでも自分にとっては、意図せず物事の境界に、コーヒーが関わっているわけです。反復は「同じもののコピー」ではなく、差異を強調し、変化を作り出す力を持つ。自分にとっては、意図せず物事の境界に、ひとつの物事が関わっているわけです。それはとても独特で、ほのかに甘くて、苦い、コーヒーの香りです。

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連載「コーヒーのある時間」

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