春先くらいから自分とは人生であまりかかわりがなかったようなタイプのひとたちと、いくらかやりとりをしていて、それがずっと続いています。これまでプライベートではとくに、目上の人とかかわることもあまりないような人生を過ごしてきましたが、実際に関わるようになったばかりか、その相手というのがとくに年輩の男性であるというのは、われながら面白いものだと感じています。先日きわめて思慮深いそのうちの一人と話していたときに、こんなことを言われたことがありました。それは、こういうものです。
人はどこかへ出かけるときに、もう行ったことがあると思うくらい、その土地のことをよく見聞きし、理解しておいて、そしてそのあとに本当にその土地に訪れると、初訪問がまるですでに起こったことの繰り返しのように感じる。その感覚は、うまくいえないけれどとても魅力に感じる。そういうものでした。自分は、そんなことを一度でも考えたわけではなかったけれど、少々おどろいたことを覚えています。というのもくちにされた一連のことばに一風変わった予言のあとを見たのは、ちょうどそのころに自分が訪れることになるであろう土地をめぐるいくつかの書き物に一気に目を通していたからでした。しかも、そのことのきっかけもまったく他人からすすめられたものだったから、これはやはりおどろきました。
『夏になると空き地は草におおわれたが、このあたりに出没する得体の知れない人間たちが自然につけてしまった細い道を、火をつけてない細い葉巻たばこのトスカーナを口にくわえたルイージ氏は、脱いだ制服の上着を肩にかけ、両手をポケットに入れたまま、足早に歩いて行く。
俺の一生はいったいなんだったのだろう。
淋しいルイージ氏は歩きながら考える。九つで両親に死にわかれ、それからは村の居酒屋の仕事を手伝わせてもらって、どうにか食べてはいけた。鉄道の職員になって、居酒屋の八番目の娘と結婚し、子供たちがつぎつぎに生まれたころは、これでやっと人間なみの暮らしができると思ったのに、ファシスト政権が天下をとって、戦争は始まるしで、まったくろくなことなしだった。そしてマリオが死に別れ、ブルーナが死んだ。
空き地を通りぬけ、製菓工場のすこし先の大通りまで足をのばせば、市電の停留所のまえにいつも行く飲み屋がある。まずは安い《赤》を一杯。塩づけのカタクチイワシを一式とれば、それを肴に、夜の時間はゆっくり流れるはずだった』(『トリエステの坂道』)
自分はこの光景をどこかで見たことがある気がします。とても強烈な印象で、どこかで見たことがある気がします。それはまさにいま自分が手がけている仕事のなかで、このことばに象徴的にあらわされているものごとについて格闘しているからかもしれないし、いつか訪れるかもしれない、この流れる夜の時間におびえて、それでもなにものかになろうともがいている人たちのそばにいるからかもしれません。それは、そうかもしれません。しかし、この夜の時間について私が目を止めてしまうのは、いつか自分の中に流れるかもしれない未来をふくんでいるような気がするからとも思えるわけです。それが本当かどうかは、わかりません。とにかく、自分はこの光景をどこかで見たことがある気がします。とても強烈な印象で、どこかで見たことがある気がします。
しかし、それに気づいていることの意味は、色々考えてもよくわかりません。自分にとっては、「得体の知れない人間たちが自然につけてしまった細い道」も、今となっては遠い過去のものです。それは振り返るとはっきりと見える気がしますが、それもただそんな気がするだけなのかもしれません。
