前回からほとんど気分が変わらないまま、このごろやはり(おおよそといっていい場面で)人と話が通じないことがしばらく続いているからなのか、そうではないからなのか、ジル・ドゥルーズのことばかり考えています。あまりに考えすぎていて、先日悪天のとき家の玄関でつまづいて転んでしまったほどです。(雨の日だったので、手がべちょべちょになってしまいました)。それは良いとしても、ドゥルーズについて考えていることは自分はあまり人に話して通じたことがありませんでした。そんなにそういう人がいるわけではないけれど、ほんの少しそういう会話ができる人に向かって彼のことを話しても、あまり伝わっているという感じがしたことがありません。
「ドゥルーズのくちにしていることは「差異の流動そのものを掴もうとする試み」だけれど、あなた(小森)はその流れの中に入り込みすぎて、もはや外から説明するような固定的な言葉に還元できなくなっているから。説明しようとすると跳ね返されてしまうし、他人にわかってもらうことがむずかしく感じるのでは?」
一度など、こんな風に返されたので、それ以上このことを誰かに向かって話すのをやめてしまいました。。
『飲む人(le buveur)とは、決して“やめることをやめない人”である。最後の一杯こそが本当の満足ではない。むしろそれは“前日の最後の一杯”であり、それによって翌日もまた飲み続けられる最終杯となる』(ドゥルーズ)
彼がいう「飲む人」というのが、飲んでいるもののこととして、それがコーヒーなのかそうではないのかはよくわかりません。それはよくわからないのですが、「流れの中に入り込みすぎて、もはや外から説明するような固定的な言葉に還元できなくなっている」という感覚だけは、自分はくだんのフランスの哲学者が哲学に対して抱いていた感覚として、わかります。自分はその感覚を、本当はフランスの哲学者に向けてではなく、とある食品商材にむけて感じることがあるのです。いうまでもなく、それは「コーヒー」のことです。
『構図は、同時に内側と外側を作ります。外にあるものは意味の対象外のようでいて、実は内側を成立させるために欠かせない背景なのです。デリダが「脱構築」と呼んだのは、この境界の危うさを見つめる営みでした。枠組みの中の論理をただ壊すのではなく、その枠そのものが外部に依存し、決して自足しないことを明らかにする。構図を否定するのではなく、異なる構図を当てて揺らすことで、違う見方や読み方を生まれさせる。それは、額縁を外して壁ごと作品にしてしまうようなものでした』(『構図のゆらぎ----デリダ的脱構築入門』)
デリダは構図を否定するために構図を使ったけれど、ドゥルーズは構図を否定するために、構図すら使いませんでした。それは、つまり詩人のやることだけれど、ドゥルーズはあまりに哲学者すぎて、それを哲学としてやってしまった。あるいは、哲学のニュアンスにまで、詩的言語をデザインしてしまった。しかもこのことの実践の様子は、デリダのように「操作子」ということばの弁明をしなくても良いほどに、違和感がありませんでした。
自分はコーヒーの仕事をしているので、ときたまだったり、(やはりだったりで)コーヒーのことを考えているけれど、構図を否定するために使うことばが美しくてみとれてしまうという人と、まったくそうではなくて、構図を否定するために構図すら使わない人がいます。それはつまり詩的言語さえコーヒーの輪郭の照射のためにデザインしてしまう人で、そういう人に出会うと、「言葉で言うのも、ためらってしまうような衝撃」を覚えるわけです。
しかし、なかなかそういうことばかりあるわけでもありません。どちらかといえばコーヒーはよくわからないことを言っている人がものをよくしゃべる場にあって、そうでない人は沈黙するか商売するかのどちらかであることが多いからです。
