知り合いの自家焙煎珈琲店で、ミシェル・フーコーの1966年の著作を読み返していました。そそくさと焙煎に戻る先達の背中から目を離して、ページに落とすと、自分はもうすっかり忘れていたけれど、このおそろしくよく書き込まれた考古学的人文知の書物がボルヘス論からはじまっていることに気がついて、おや、と思ったりするわけです。つまり、それはひとつのおそろしい用意周到さの表明です。人間の考えがどういうかたちをたどってきているか、そのことについてとても深い洞察をくわえている書き物を、ボルヘスからはじめるということ、それはつまり。。
『16世紀までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向づけていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見えるものと目に見えないものの認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である』(『言葉と物』)
内容を読み進めると、完全にそういったことを忘れてしまう前世紀の人文知の焦点のような著作だとはあらためて思いつつ、しかし、その感想が深まれば深まるほど自分はフーコーのあのおそろしく秀逸な構図的可視化のとなりに、ボルヘスの「嗤い」の表情が、ときどき微妙な影を落としているのが、どうしても気になってしまうわけです。理路整然としたなかにときおりぶり返してくるボルヘスの感じ。。それはやはり、この書物を単純な分析の側から見ることを容易にしません。そこには、いくつかの問題があります。深さの信頼がどこかにあり、いくつかの層がことばにならない感覚で自分をささえてくれるという意味では、その店で出てくる深煎りのコーヒーにも同じものが感じられるけれど。。自分が問題だと思っているのは、もう少し他者との関わりとは関係のないところにあるものだとも思っていました。そしてそれを考えていると、いよいよ自分がどこにでもいて、同じくらいどこにもいないような感じになります。基準だとか位置だとか、根拠だとかそういうものの存在しない感じ。。
『ボルヘスは、この不可能の地図にどのような形象をもつけ加えていない。詩的出会いのきらめきを、いかなるところにもほとばしらせはしない。ただ、必然性のうちにでも、もっとも人目につかぬ、それだけにもっとも執拗なものを巧みにかわしているのにすぎない。つまり彼は、諸存在の並置されうる場所、無言の地盤を省いてしまっているわけだ』(『言葉と物』)
ウィトゲンシュタインは「絶対に1mだとも言えるし、絶対にそうではないとも言えるもの」として、「メートル原器」の存在を(どこかさみしそうに)挙げていますが、自分もなんとなく同じことばかり考えている気がします。しかし、このことを人と話そうとすると、かならず「測量」がはじまってしまうので、結局誰とも話しが通じないということになってしまいます。それが「無言の地盤を省いてしまっている」(フーコー)のかどうか、私にはわかりません。私にわかるのは、(自身の人生を振り返ったとき)、学術機関などからもっぱら遁走した理由にはこのあたりに何かがあるということと、そして現在たずさわっている仕事に「測量」が顔を出したときのアレルギーの原因らしきものがそれだということ、それとあとこういう気分は何かの「苦さ」を思い出させるので、そんなおりにもともととりたててなじみもなかった黒とか焦茶色の液体が、ほんの少しだけ身近に感じられることくらいです。そうなのです。こういう気分は、どこか深煎りのコーヒーの味に似ているのです。気分というか、こういう物事をつつんでくれるなにかとして、自分は「いくつかの深煎りコーヒー」に向けて、「いくつかの孤島」(フーコー)という比喩をつけたりしたくもなるわけです。
しかし、それはもはや、会話とかそういうものなのでしょうか? むしろお金を払って静かに帰ることの方が、はるかに何かをやりとりしているというような気がしたので、ちゃりんという音のあとに扉をしめ、自分はドアを開閉したボロの国産車のハンドルを握ったあと、ほんの少しだけ止まってしまいます。暑い日。。もう9月なのに、とてつもなく暑いある日の午後です。
