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珈琲とサーカス

Posted: 2022.03.13 Category: ブログ Comment: (0)

珈琲とサーカスイメージ1

店主です。


フェリーニの映画『道化師』I clowns (also known as The Clowns)のことを仄聞する機会がありました。わたしはその際さまざまなことを考えたのですが、それはすっきりしたものではなかったように覚えています。かつて鑑賞したことのある、非常に暗示的な内容の映画の記憶に懐かしさを持って触れ直し、それをきっかけに思索がうつろいをみせたとかそういうことではありませんでした。わたしはあまり、人に何かを仄めかされたりするのが好きなタイプではありませんが、自身の行動原理をたどるとどうでしょうか。「これもひとり合点かもしれない」(中野重治)ですが、みずからなにかに、仄めかされにいっているところがある気がします。どういうわけか、みずからそっちにいっているようなところがある気がするのです。だからいったい何なのかというのは、正直よくわかりません。そもそもなぜこんなことを言い出しているのかも、同様です。


このしゅの行動原理を、一般的にサディズムの反対のものと捉えていればいいのかもしれませんが、わたしにはあまりよくわかりません。人からそのしゅのことをえげつないふうに言われても、そうなのかと思いながらも、正直よくわからないところがあります。ともかく、自分の意思とどの程度まで関係があるのかをいうのは覚束ないものですが、わたしにはいまの自分の仕事というものがあり、いまの自分の仕事(自家焙煎珈琲、あるいはそれらを主な商材とした事業体の運営らしきもの)をはじめてから、もっぱら「人に何かを仄めかされる」場面に立ち会うことが多かったような気はしています。そういう気分は、自己意識とは少しずれているものかもしれません。しかし、そのこと自体はあまり問題ではありません。わたしが(問題にしたというより)ある程度「意識」したのは、ある特定領域に限られた場面上で、前世が「道化師」だと言われたことが二度ほどあったという記憶のことです。あまりにもさらりと仄聞したフェリーニの、一本の(単純でない)映画をめぐる追想を契機に、わたしはまったく種類も毛色も違う人から、二度そのようにいわれたことがあったのを思い出したのです。


『その夜は唐突に終わった。道化師たちは私を笑わせるどころか怖がらせた。判読しがたい無表情な白い顔、酔っ払いの歪んだ顔。叫び声、異常な笑い、バカげた冗談は、どこの田舎にもいる風変わりで落着かない人たちを私に思い出させた』(『道化師』フェリーニ)


前世が道化師であるという占術をどう捉えたらよいかはわかりませんが、しかし、わたしは「道化師」が暗喩として示しているものの方へ、いつのまにか自身の思考が歩いているのがなんとなく気になっていました。サーカスというものが人生で特別な意味を持ったことがあるわけではないのですが、サーカスティック(sarcastic)なものとは切り離せない、自分の人生があったような気がしたのです。そこにはなにか、強烈な磁力を感じました。はっきり、なにかの問題があるような気がしたのです。わたしはsarcastic ということばについて、簡単に「検索」すれば出てくるような紐付けられたことば以外の、いったい何について語ればよいのでしょうか。「悪意」、「皮肉」、「嫌味」、「辛辣さ」。。どの日本語にも、きれいに該当するものが見つけられません。そこでわたしは、(自身決して音韻論者ではありませんが)、同じ音の意味をもった言葉が、ほとんど同じ意味で共鳴しているようなことを思い出します。たとえば、「感覚」ということばはわたしにとってある意味でとても「間隔」です。あるいは、「覗く」ということばは(「これもひとり合点かもしれない」ですが)、ほとんど「除く」ということばと同じ意味に見えます。同様にサーカスティックということばは sarcastic かもしれませんが、わたしにはそれは circus-tic です。つまり、「サーカス」です。


もちろん、言語学的に tic (〜的)という接尾辞は存在があいまいなものとして捉えられていることはわかりますが、わたしは sarcastic と circus-tic とが、ほとんど同じものに思えました。sarcastic (悪意)とは「サーカス」、つまり非常にサーカス的(circus-tic)にあらわれているような気がするのです。それは見世物という役割の姿勢によってもたらされる、あるしゅの批評性や非日常性、もしくは反転の論理などといえば簡単なもので。。しかし、(わたしは)、なんというか、このことを表面だけなぞりたいような気持ちで、(博捜とは真逆の気持ちで)、たとえば山口昌男氏の(それこそ懐かしい)著作をひっぱり出してきたりだとか、色々と謎の行動をしていましたが、それによって何かが見つかったり、満たされるようなことはけっしてありませんでした。


『私達は永遠に満たされることはなく、それがなぜかは考えられない。死んだ男の目の中に殺人事件の手がかりを探すようなもので、永遠に満たされることはなく、そしてそれがなぜかは考えられない』(This House Is a Circus)


たとえばこれがsarcastic なものの本質でしょうか? しかも、それはcircus-tic な場所で言われるのです。アレックス・ターナーは「悪夢」nightmare について、「お気に入りの最悪なもの」と名前をつけました。このことに関して、よく意味がわからないという人がいます。あるいは、よく意味がわかりにくいという人がいます。しかしわたしには、この意味がなんとなくわかります。「お気に入りの最悪なもの」。このことばの意味が、なんとなくよくわかります。ことわっておかないといけないことがあるとすれば、この「お気に入りの最悪なもの」というのは、概念に対する説明ではなくて、あるひとつの感覚であるということです。これはたんなる、ひとつの感覚です。なので、(たとえば)それが悪夢ということばにしか該当しないだとか、悪夢という概念を述語的に言い換え得た見事なことばだとか、そういうことではないのです。ここには、何か、抜くことも刺すことも出来ない「感覚」(間隔)の問題があります。個人的には、そんな感じがします。


どうでも良いですが、もっと個人的なことを言えば、「悪夢」が「お気に入りの最悪なもの」といわれるとき、わたしには「悪夢」ということばが、ほとんど「珈琲」ということばに見えます。そこには見つかるものはなく、満たされるものもありません。何かを探そうとしても、その行為はせいぜい「死んだ男の目の中に殺人事件の手がかりを探すようなもの」です。わたしにとってコーヒーは、お気に入りの最悪なものです。それは、つまり、じつに何でもないものということです。


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