カフェ・アダチ ロゴ

 

店舗情報

12:00 – 17:00 L.O. 16:30
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

駐車場20台

© Cafe Adachi

ブログ

Blog

〈同じ〉への〈異なる〉従属

Posted: 2025.08.06 Category: ブログ

それがコーヒーに関してのものなのか、全然そういうわけではないものなのかはよくわからないけれど、人と何かを話しているうちに、両手をブンブン回しながらおでこをぶつけ合って泣いて鼻水をたらしながら情けない言い争いになったりなどするとき----つまりその、意見があまりに合わなかったり、そりが合わなかったりするときに----自分はいつもジル・ドゥルーズのことなどを考えたりするわけで、たとえば『なぜ〈同じ〉が先にあり、〈異なる〉がそれに従属するのか? むしろ、〈同じ〉とは〈差異の縮減形〉ではないだろうか?』(ドゥルーズ)ということばなどには、このわけのわからない諍いを奇妙なくらい本質に近いところまで見透かされている気がするけれど、やはりどれだけ考えても難しく、結局よくわからないままだったりもするわけです。

『なぜ〈同じ〉が先にあり、〈異なる〉がそれに従属するのか? むしろ、〈同じ〉とは〈差異の縮減形〉ではないのだろうか?』(ドゥルーズ)

これは、「同じ」ということばを「全体」ということばに、「差異」ということばを「固有名詞」ということばに読み変えると、初期のデリダの書いていたものに重なるけれど、ここにはある作家がくちにした、『デリダが「読解」しようとするときに、ドゥルーズはたえず「応答」しようとする』とかだけでは言えないような何か----それよりももっと大きな「差異」----があるので、むしろ『差異と反復』の著者が扱っている言葉の対象は、いつも彼の身振りのほうによって奇妙な現れ方をするということの方が、自分の最終的な感想に近いかもしれないなどとも思うわけです。

『私は、時代状況と何の関係もない「自己」の問題が実在すること、それは倫理以前のものであることを強く感じていた。なぜなら、倫理的であるには他者が存在しなければならないが、その他者が現実的に感じられなかったからである。私はこれを少年期から感じていた。といっても、私はべつに「病的」であるとは思えなかった。というのは、他方で、私は、私がどう考えようとお構いなしに、世界が実在し且つそれは「私」をつらぬいて構造的に作用しているということを認めていたからである。

私は、そのような構造を越えてあるような「自己」など認めなかった。「主体」などは幻想にすぎないと思っていた。いわば、一方でまったく主観主義的で、他方でまったく客観主義的であるという、この両極があって、それをつなぐ道が存在しなかったのである。

私がものを考えだしたのは、この亀裂においてであった。そして、このことについて考えている人はどこにも見つからなかった。私は、「文芸批評」としてしかこれを語りえないと思った』(『ある気分=思想』)

思えば自分もなんとなくこんなことばかりをずっと考えていたような気がします。それは最近読んではっとしたというわけではなく、そもそもこの文章を読んだ体験は今の自分の年齢を半分に割っても多すぎるくらいの年齢のころのものでした。その体験は、我が意を得たりということばそのものでしたが、しかし一方で「主観」というのはつねに「俯瞰」でもあるので、ことばの意味や範囲の限定をより素早く正確に理解してしまう人ほど、構図的な物事の理解に対する推論がある人ほど、このことの理解はどこか遠ざかってしまうのだろうということは、自分は----「思想」というよりは、なんとなく怠惰な「気分」の方からから----どういうわけか理解していたところもありました。実際、いまくちにしたことばの「主観」というものを「自分の意見」ということばに、「俯瞰」というものを「他人の意見」ということばに置き換えると、冒頭の自分の気分にも重なってきます。

『コーヒーに近づけば近づくほど、コーヒーから遠ざかってしまう。矛盾しているようで、実は現にある事象だ』(『近づいて遠ざかる』)

それに、何かを意識しすぎているというのは、本来あまり自然なことではないということもあるのです。なぜなら、意識しすぎているものは、たいていはおかしくなるからです。自分はコーヒーをそれほど「意識」もしていないけれど、それはそうじゃないとだいたいへんてこになるであろうことを、「主観」や「俯瞰」から掴んでいるからだという気もするし、同じくらいそうでもないような気もします。というか、そこについて振り返って考えてみると、そういう言い方がしっくりきます。

関連記事

Categories

Latest Posts

Archives

連載「コーヒーのある時間」

← 戻る