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アウト・オブ・アフリカ

Posted: 2023.09.05 Category: ブログ

アウト・オブ・アフリカイメージ1

店主です。

クリストファー・ストリンガーの『アフリカン・エクソダス』(Christopher Stringer 『African Exodus』)は、とても気にかかる、じつに不思議な本です。『出アフリカ記』とも呼ばれている、たしか20世紀と21世紀のさかいめに商業出版のかたちで(ある方面に)影響力を持ったこの本は、なんともいえない不思議な雰囲気を放っています。こうやって記した時期的なものが、記憶によるものなのでどれほど正確かはわかりませんが。。調べ直せば良いのですが、わたしはもとよりその方面のことは適当になりがちです。とにかく忙しいために、(性格もあると思いますが)、適当になりがちです。かくいういまも、時計にチラチラと目をやり、こちらを睨むようにミニ四駆のパッケージが向けられるというわけのわからない緊張状態でこれを書いています。

(これはわたしの印象というだけでしかありませんが)、ストリンガーの書いたアフリカと人類史に関するその本は、実にジャーナリスティックでありながら、アカデミックでもあり、ジェネオロジカルでもある---しかし、どこか定まらない印象をあたえる、なんとも言えない不思議な本です。そのことと関係があるのかどうかはわかりませんが、わたしは(学生時代ではなくなぜか大人になってからのほうが関わることの多い)大学教授だとかいうひとたちの書いている本に対し「根本的な尊敬と不信」(大江健三郎)を持っていることが多いのですが----ストリンガーのこの本は、何度も繰り返しますが、そういうものとは違った雰囲気があります。それは20世紀まで常識とされていた人類学的な、(とくに自然人類学的な)ある部分、ホモ・サピエンスに関わるある部分を完全にぶち壊しにしてしまったという在野な感覚から来ているのかもしれないし、あるいは、アフリカ単一起源説というものの精悍さが、コーヒーだとかいうもののわけのわからなさにどこかしら絡んで見えてしまうというところもあるからかもしれません。

『ホモ・サピエンスは、旧世界全体にいたヒトの子供ではなく、他の生き物と同じように、ある特定の場所と時代にルーツを持つ動物なのである。また、そう解釈したからといって、私たちの属する種はどこから見ても矮小化されはしない。実際、私たちの出自がみすぼらしかったことを証明する説明を通じて、私たちの知識は豊かになっている。それによって現生人類は適切な背景のもとに位置づけられ、私たちは初めて適性な自己評価が可能になり、利口なサルから地球を必要に応じて変えられるホミニドに進化するときに越えた溝も理解できるようになるのである』(クリストファー・ストリンガー)

これはわたしの個人の感想ですが、ストリンガーがアフリカ単一起源説を唱えてしまったことで、コーヒーの世界にもあるコペルニクス的転換があらわれているような感じがあります。誰もなにもいわないのに、自分勝手に感じている感覚があります。誰もなにもいわないといえば、ウィリアム・フォークナーの『アブサロム・アブサロム』のラストにも、ストリンガーの言っていることと同じ風景があります。あの本のラストにある白と黒の比喩、あるいは方角の比喩は、ストリンガーが徒手空拳の徒労で証明してみせた大いなる人類学上の学説を、ただの文学的想像力で確実に先取りしてしまったという革命的ななにかなのです。しかし、それについては、誰もなにも言いません。コーヒーに関していえば、「出アフリカ論」が正しければ、人類の起源もコーヒーの出自における概念も、われわれがすらすらととりあえずいえるような内容は、不安定かつわけのわからないものに引き戻しの目にあうでしょう。そして、それはじつに本来的なものです。エチオピアの赤い実をくちにしていたなんとかだという人類の祖先だけ、脳機能の進化が(同時代他地域の人類の祖先に比較して)爆発的に進んでいただとかいう言説も、通時性だとか共時性だとかいうわけのわからない概念のまやかしのうちに浮かんでいたことがわかるかもしれません。コーヒーはたしかに、(いま現在世界に広く分布が見られるものの)、ある特定地域から生まれたというふうに言われたりします。そのことに(たぶん)疑いはありません。しかし、コーヒーが他力的にアフリカ大陸の局所から世界に伝播したという感覚は、ストリンガーの理論のあとには、なにかずれて見えるように思えるものです。というよりむしろ、コーヒーは、人類を追いかけるようにして「出アフリカ」しているような気がするのです。

こういう言い方は、ただのアレゴリーでしかありません。あるいは、「読むことのアレゴリー」(ド・マン)でしかありません。しかし、クリストファー・ストリンガーとアントニー・ワイルドの並置が軋みを見せる場所に、ミルチャ・エリアーデを置いてみることで、あらたに幾何学的模様が見えてこないでしょうか? それは、つまり、シャーマニズム(呪術的託宣)の文化がアフリカに存在しないということが、「人間」というものの姿を、かえって影のような形で鮮明に映し出しているのではないかという印象についてのことです。人は故郷(アフリカ)を捨てたところから、神の声が聞こえたり(シャーマニズム)、自意識を生み出したり、超越論を生み出したりしました。そしてコーヒーがその存在を追いかけるようにして世界に広まったというふうに、(それがいささか雑駁な構図であったところで)、わたしにはやはりそういうふうに見えて仕方ありません。しかし、この言い方も「誤読」による「創造」(ハロルド・ブルーム)に過ぎないのかもしれません。コーヒーを土地から持ち出したのは、結局のところただの「人間」だからです。ということはつまり、レイシズムも、(概念としての)コーヒーも、すべて郷愁から来ているというのは言い過ぎでしょうか?

それが誤読による創造であったとしても、このことをもう少しきちんと言うためには、わたしはあと数百冊くらいはその方面に関わる本を読む必要があるかもしれません。あるいは、5年だとか、10年だとか、それくらいは学術をこえるレベルで一生懸命になにかを書いて、なおかつ(ストリンガーのように)商業出版として認めてもらうような、異常なマーケティング能力が必要になるかもしれません。そして、それ以上のなにかも必要にもなるはずです。とはいえわたしには、もとよりそういう能力がありません。能力もないし、それどころか暇もありません。。なぜなら、自分の事業で、コーヒー豆を2袋買うと1袋プレゼントキャンペーンなどというサービスをはじめたらヒットしてしまって収拾がつかないほどコーヒー豆を焼かないといけないし、それのサービスが終わったところで、焙煎機を掃除したりだとか、コーヒー生豆をバラしたりだとか、そういうことが、たくさんたまっているからです。。そうなのです。わたしにはしなければならないことがたくさんあります。あまりにたくさんのしなければならないことがあります。

そもそも、ストリンガーの本に関して言えば、かろうじて彼に言明するひとたちの言説が、一様にどうもあやしいものに感じられることのほうが不思議なことかもしれません。これはおそらく、わたしがここまで書いたものにも漂っているニュアンスかもしれませんが、彼の書いたものをめぐる言説には、必然だとか、偶然だとか、そういうことばがどうしても多く目についてしまうからです。何が言いたいかというと、それはすごく危険なことなのです。必然というのも、偶然というのも、まったく違うものに見せかけて、実はほとんど同じことを言おうとしているし。。というか、必然の必然性をいおうとするとそれは偶然になるし、偶然の偶然性を強調しようとすると、それはかならず必然に転化してしまうのです。わたしはたかだか自然人類学的な研究内容のアップデートからくるコーヒーとその諸相に関する整理よりも、このことのほうがよっぽど始末に追えないよな、などと考えていて、嫌な予感に襲われて時計を見上げると、いまは朝の5時半です。いまからわたしは、スヤスヤ眠っている爆発前の幼稚園児と小学1年生を起こしに、(要求されたのに不機嫌極まりなくなる彼ら彼女らを起こしに)、暗い暗い寝室に足を向けなければなりません。。出勤前に、一緒にミニ四駆を作る約束をしたのです。

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