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コモディティと差異

Posted: 2023.07.22 Category: ブログ

コモディティと差異イメージ1

店主です。

遠方に住む知人に、ブルネロ・クチネリの書いた本(正確に言えば当人そのものに渡すものではなかった)を差し上げものとして用立てようと、久しぶりにその著作をパラパラとめくりながら目を通していました。少しく前の時期から考えると、このごろ彼の著作はほとんど読んでいないに等しかったのですが、わたしは彼の書いているものの中に、彼の書きたいことやそのイメージの部分とはまったく違う形で、別のなにかがあるという印象を持っていた気がします。彼の著作にちりばめられた(ともすれば)非営利団体の代表のように見えてしまいそうなことばたちと、それとはまるで正反対の事業の機能性に関わる部分の矛盾は、なんともいえない不思議なものでした。じっさい彼の著作の長閑なことばからは、事業体の異常な高収益性や、伶俐なほど高度組織化された現場の姿は見えてきません。牧歌的な内容の書き物から浮いた発言だけを取り出してみると、哲学や文学についての、気の利いた評論家のようなつぶやきの方が目立ってしまうほどです。

『経営者の発言などをしたり顔で論評するのは、自転車をこぐのと同じように、哲学的な根拠も、宗教上や倫理上の根拠も求められない。ただ一つの真実を押さえておけばそれでよい。それは、世の中に普及しているものはすべて、長年にわたってさまざまな状況で利便性や効果などを認められ、受け入れられてきたということだ。物事はありのままにとらえればそれでよく、裏側を深読みする必要はない。フロイトですら、自分の信奉者たちが、ありとあらゆるものについて、「それが何を意味しているのか」を論じ立てるのにうんざりしていた』(セオドア・レビット)

裏側を深読みしているつもりはありませんが、クチネリがセオドア・レビットの研究家ともいうべき姿を、しきりに彼の回想録の中であらわしているところは気にしても良いと思います。個人的な話になりますが、そこはごく最初のころから、見逃せるような種類のものではありませんでした。実際レビットという人も、クチネリと同様、プラトンやカント、マルクスやドストエフスキーなどの著者からの引用が異常なほど多い書き手なので、そのことは彼の経営学者という肩書からすると、どこかおかしな印象が残ります。そして、彼を引用しているクチネリの特異性も、引用主と同じような著述家からの引用の多さと重なるので、ぼんやりしたものがぼんやりしたものに覆い被さるような様相として、見えなくなってしまいます。しかしそのことは、クチネリの正体をわからなくするというより、むしろその反対のものだとわたしは思います。

『ブランド価値を維持するには、チャネル・マネジメントが決定的な役割を担うといわれますが、それも真実とはいえ、ある部分にすぎません。私は、コモディティというものは存在しないと考えています』(レビット)

セオドア・レビットのくちにした「コモディティという概念は存在しておらず、あるのは差別化の程度だけ」ということばはどうでしょうか。ほとんど理解に苦しむような、おそろしいようなことばですが、ここには、ブルネロ・クチネリという人物が彼の事業体で実践した、物事に対する責任の取り方ともいうべきなにかが見え隠れします。このことから、世界でゆいいつ資本主義に血の通った場所を作ったとも呼ばれる彼の仕事の仕方を見通せるでしょうか。われわれはコモディティということばを、気の利いたなにかの反対の概念として見ているような気がします。しかし、実際、そこには差別化の程度の差しかないわけです。そのことは、コモディティという概念そのものがある気の利いた部分になったり、コモディティという概念そのもので磨かれた差別化が、高度な事業体で行われていることにもあきらかです。クチネリが実践していたのは、そこまでわかった上での、それとは正反対の方向での事業の実践です。わたしはこれらの事柄に関して、個人的にいくらか目を開かせられる部分があります。そしてこれらのことは、とある嗜好品飲料にも少しだけ関わりを持たせることのできる内容だと考えています。

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