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コーヒーと固有名詞

Posted: 2023.10.14 Category: ブログ

コーヒーと固有名詞イメージ1

店主です。

固有名詞というものは長らく自分の人生で謎めいていた、というようなことをかつてどこかで書いたことがあったと思います。コーヒーに関しても、固有名詞が大好きな人たちがいます。たぶん、そういうものはよく見えると思います。どちらかといえば、わたしは、あまり好きではありません。あまり好きでないというか、よくわからないのです。そもそも、固有名詞というものがよくわかりません。もちろん、「固有名詞論」的なものを読んで、なにかを考えてしまえば、ある程度はわかったような気にはなります。それでも、あくまでこれはただそういう気持ちになるというだけの話で、根本的なよくわからなさには届かないのです。

たとえば、機序をいうなれば固有名詞というのは語る主体との「関係」や「距離」によって試されるもので、実態そのものの定義には意味がないだとか、蜃気楼のごとく蒙昧なものであるというようなことも、なんとなくわかったりします。しかし、そういうことがなにかをわかったような気持ちにさせても、もっと腹の底の深いところで、釈然としないものが残ってしまいます。むしろもっと徹底的にわかりにく言い方で言われた方が、このあたりの物事に対してはいくらか誠実であるような気がします。固有名詞に対するわかりにくい言い方といえば、某アルジェリア生まれのユダヤ人哲学者は、「固有名詞としか呼べない固有名詞は、おそらく固有名詞ではない」ということを言いました。(グラマトロジーについて)。このとてもややこしい言い方を、どうにかしてややこしくない形で読めないでしょうか? ひとは固有名詞がなにかはなんとなくわかっていますが、実際にそれを固有名詞とくちにするとき、(固有名詞ということばで説明しようとするとき)、固有名詞の固有名詞性は消えてしまいます。なぜなら、「固有名詞という固有名詞は存在しない」からです。もっと正確にいえば、「固有名詞」が分類の文脈として取り出されて説明されるとき、それは「固有名詞」ではなくて、「概念」です。

くだんのフランス人哲学者は、このからくりを言おうとしていたのだとわたしは思います。こういうものは、アレゴリカルに読まないといけない気がするものです。直接的に。。「考える」というよりはむしろ、(「読む」というよりもむしろ)、たとえば(ある固有名詞を登場させて)小説を書くだとか、詩を書くだとかでしか、そういうものでしかきちんと答えることができないような気がするものです。デリダのすごさは、そこにあるのかもしれません。あるフランス人映画監督のことばを借りるのであれば、そこには確実に「ひとを労働にかりたてる」なにかがあるのです。しかも、その意味を読めたひとに対して、正しく労働にかりたてるなにかがあるのです。

わたしはこういうもののことを、自分がまだかろうじて職業的なかかわりを持っているなにかの飲み物に関していうとなれば、やはり珈琲大全だとか、コーヒーこつの科学だとか、あるいはなんとかだとかいった書き物は、正しくひとを労働にかりたてると思います。しかも、その意味を読めたひとに対して、正しく労働にかりたてるのです。ある意味で、この「正しく」というところがポイントです。一方で、絶望的なほどひとを間違った労働にかりたてるようなディスクールというのも、確かに存在します。コーヒーに関しても、間違いなくそういうものは存在します。(もちろんここで固有名詞をあげることなど、できるわけがありません)。間違った労働というものにも、さまざまな種類があります。それを促すディスクールにも、さまざまな種類があります。たとえば、知らないあいだに商品にならないままコーヒーの生豆がどんどんなくなるだとか、知らないあいだに焙煎機がどんどん壊れていくだとか、知らないあいだに一人ずつ友達がいなくなっていくだとか、突然閉店しますという張り紙がお店の前に貼られたりするだとか、そういうものに、過剰な加担をみせるようなディスクールです。わたしはお祓いでもするかのような気持ちで、そういうものにかりたてられたかわいそうなひとたちを眺めることがあるのですが、なによりもかわいそうなのは、もしかしたらそういうときにただ悲しい表情をしているだけの自分自身かもしれません。それは、本当に悲しくなるものです。それはなぜこんなに悲しい気分になるのだろうと、しまいには勝手に怒りっぽくなったりするようなひどいものなのです。

しかし、出来ることなら、「労働」(ゴダール)は間違えたくないものです。とくに、ひとにかりたてられて間違えた労働のけがをする可能性の大きさは、なんとなくひとびとの心の中にある恐怖だったりします。あるいはそれが存在しないひとたちが、根拠不明の無鉄砲さで表面化しているなどということも、そこかしこで見られるような「現象」(実相ではない)です。そんなわけで、自分もたまにけがをしてしまいます。こういう文章を書いていることも、ある意味では大けがです。

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