カフェ・アダチ ロゴ

 

店舗情報

11:00 – 17:30 L.O. 17:00
定休日:金曜、第一木曜

敷地内禁煙

© Cafe Adachi

ブログ

Blog

主体と経験のコーヒー

Posted: 2023.02.23 Category: ブログ

主体と経験のコーヒーイメージ1

店主です。

同業者と呼ばれるひととあまり交流のない人間ですが、ここ2ヶ月ほど続けてそのように呼ばれるひとたちといくらか関わることになりました。いまが2月なので、自分は新しい年からそういう機運になっていたのだろうかと考えていたのですが----もしかしたらそれは年が明けてからそうだったというわけではないのかもしれません。思い出せば去年の暮れごろから、お店でなくわたしそのものに向けた身分照会がいくつかあったことや、(そのうちのひとつは、間違いなく人生のなかでもっともえげつないもののひとつでした)、「大学」などというあらけない題目でなにかが演じられる予定だったことも、そのことと無関係ではなかったと思います。わたしはだいたいにおいて、同業者だとかそれに似た名前で呼ばれるひとたちと交流を持つとき、なにか引っ掻き傷を負うような気がします。そういえばそのころ(いまもですが)わたしは訥々とキャリア初期のころのあるフランス人批評家の書いた本をしつこく読んでいたのですが、主体だとか経験だとかいうなにかについてのぼんやりとした考察と、そのときの現実が混ざってしまっていたのかもしれません。あるいは差異だとか反復だとか、そういうもののことであたまがいっぱいだったからかもしれません。記憶の急な湧出にうろたえるプルースト的感じが、コーヒーをめぐる言説についてまわるのは不思議ですが、これはもともと自身のもちあわた特性なのかもしれません。何にしても、わたしはコーヒーの世相に関して、「これからどうなる?」だとかいうことばを耳にする場面に、二度ほど立ち会うことになったわけです。

『悪徳とはなにか。それは君がしばしば見たことのあるものだ。一般にはあらゆる出来事にたいして「これは君はしばしば見たことのあるものだ」という考えを念頭に用意しておくがよい。結局上を観ても下を見ても至るところ同じものが見出されるであろう。古代史も中世史も近世史もその同じで一杯だし、今日も都市や住居はこれで一杯だ。一つとして新しいものはない。すべておきまりであり、かりそめである』(マルクス・アウレリウス『自省録』)

「これからどうなる」ということを考える前に、たとえばこういうことを考えてみる必要はないでしょうか。マルクス・アウレリウスは、すいぶん過去に『自省録』を書いたひとですが、そこに「古代史も中世史も近世史も」、という文言が出てくることには、少し違和感がないでしょうか? 彼が捉える「近代」とは、いうまでもなく紀元前にあたいする時期のことなのです。おのおのの時代で「現代」などと呼ばれている射程距離が、どれほど移ろい(虚い)やすいものかは、このことに明るくないでしょうか? メシアと同じような時間を生きたひとが、彼の時代から見た「古代」「中世」「近代」「現代」ということばをくちにするのです。歴史というのが結局「語る主体」(ソシュール)とともにしかないということは、「現代」というものの過剰さに冷や水を浴びせるに足りうるでしょうか。ある意味でこれは、咀嚼すると不吉な概念かもしれません。コーヒーに関していえば、焙煎度合いと呼ばれる何かの機序は、「おきまりであり、かりそめである」(アウレリウス)かたちをもって、あらゆる時代に不吉なほど試されてしまったので、もはや「このあと」も「どのあと」も存在しない気がするのです。あるとすれば、差異性の洗練度と、「反復」(ドゥルーズ)の問題です。

このあたりの不吉さは、たとえば『珈琲大全』という書物の終わりの方で、ドイツ人技師が(あの時代として描かれた日本の地で)プロバット焙煎機を試運転する場面などによくあらわれていると思います。どこからどう切り取っても不吉なあの場面に、よくあられていると思います。あそこでいわれていた「生だ、生だ」、ということばは、完全にある期間の、ある時代に支配的だったコーヒー豆の焼き加減のことなのです。そしてそれは、後年、別のなにかに形を変えました。繰り返しになりますが、わたしは焙煎度合いと呼ばれる何かの機序は、あらゆる時代にある程度まで網羅的にかたちを変えて試されており、コーヒーは味わいの範囲(焙煎度合いの範囲)では、ほとんど試され終わっているように見えます。あたりを見まわしてみると、抵抗的な残党にあたるひとたちが「生だ、生だ」というものより「生」な焙煎度合いを試すくらいの徒労に突き当たっていることが、コーヒー(の味わい)にとって「このあとどうなる?」という概念の、擦り切れ具合をあらわしているといえなくもないのです。

コーヒーに「このあと」的なものが残されているのかどうかは、わたしにはよくわかりません。そういえば、ショップロースターサイズと呼ばれる業務用小型焙煎機のオーセンティシティーも、20世紀の終わりのころがピークでした。少なくともプロバット焙煎機に関していえば、そうくちにすることは過言ではないのです。コーヒーに「このあと」的ものが残されているのかどうかは、わたしにはよくわかりません。それは同時につまり、それでもなにかが「反復」されていくということです。そしてそのなにかは、容易にことばで言えないものに近づいていくに決まっています。これらは簡単に言えるような種類のものではありません。「中浅煎りとフレンチプレスの組み合わせのあとにはなにがくるのかな」だとか、「丸山さんのあとって誰なんだろうね」だとか、そう簡単にいえるような種類のものではありません。比喩的にしかいえないようなもの----つまりハイデッガー的にしかいえないようなものなのです。ドゥルーズですら、「反復」について語るとき、「生の」とか「裸の」とか「秘められた」だとかいうことばを使うよりほかありませんでした。機序についてしゃべるとき、ひとはなにか破れるものに出会うしかないということは、『差異と反復』の中にある象徴的な繰り返しの場面です。そしてそれは結果として、概念についてしゃべるしかないということです。「このあとどうなる」も簡単にくちにされることばですが、取り出され方のことでいえば、わたしはそこにはかならず経験論的なものの考え方があり、あるいは経験論的なものの考え方が「あてにされている」ということが気になります。いくぶんかそういうことが気になります。個人的にはこのことのほうが、「このあと」だとか「そのあと」だとかいわれることそのものに対してよりも、はるかに気になる出来事です。それは、「かりそめであり、おきまりのこと」(アウレリウス)というようなことばであらわされるニュアンスに関わるなにかのことです。

わたしは個人的に読んでいるあるオセアニア作家の書いた書物のなかにある、「先付け視界不良、後付け視界良好」ということばがとても好きなのですが、このことばは、わたしがここまで一生懸命書いたことをあらわしています。たった一行でいいあらわしています。たった一行でなにかをいいあらわしているといえば、ジル・ドゥルーズはスピノザの『エチカ』について、(あのおそろしく深淵な書物について)、「経験論は、概念にとっての神秘主義」というふうにいいあらわしています。たった一行でいいあらわしています。いったいなんということばでしょうか。わたしがつねひごろから考えていて書きたかったこと、あるいはついぞ書きえないと思っていた事柄も、こんなふうにきわだったひとたちの一行に、あっさり回収されてしまいます。経験論は、同質性や同一性を正しく見極めるためのものさしであったのにも関わらず、それ自体が神秘主義に転換してしまいます。歴史だとか、科学だとか、どうやっても脱出不能に思える同質性(同一性)に転換してしまいます。そこで問われる「エチカ」とは、いうまでなく「倫理」のことです。視界良好にいわれる出来事の限界について、と自分は思います。経験論的にいわれることの限界を、見極めなければいけないぞ、と思います。そして同時にそれはやはり、ただ視界不良な「暗闇の中」(クリプキ)を歩むしかないなという気持ちの現実に帰ってくるのです。「かりそめであり、おきまりのこと」(アウレリウス)というのは、「先付け視界不良、後付け視界良好」というのとほとんど同じ意味です。(だから)、わたしは「命がけ」(マルクス)で歩くよりほかない気がします。勇気を出して歩くよりほかない気がします。そしてそれはおそらく、コーヒーの仕事でも同じことなのです。

関連記事

Categories

Latest Posts

Archives

← 戻る