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最後に立ちあらわれるもの

Posted: 2025.09.12 Category: ブログ

ここ最近どうしようもなく「個人的なこと」に翻弄されてしまって、くだを巻く相手もついにいなくなってしまったからなのかもしれないけれど、とりわけ孤独な感じのする本を開いてみたくなったりもするわけです。夜更けにそんなことをしていると、何かとても悪いことをしているような気分になりますが、「個人的」といえば本棚から取り出した本をパラパラとめくっていると、そこに書かれている「個人」という言葉の不思議さに引っかかってしまい、思い切り首をかしげてしまいます。「個人」と言われた途端に人が急速にシュリンクし、社会の枠組みや制度の中に置かれてしまうことは、クロード・レヴィ=ストロースが「言語は啓蒙の前に、搾取の側に立ちあらわれる」とくちにしたような、ある種の苦さを思い出させるものです。つまり、個人ということばはあるひとつの立場を投影し、それらを救おうと立ち上がったにもかかわらず、現実にはその逆のことしか起こらなかったという歴史の記憶が、これほど瑣末な地方都市のコーヒー屋の人の頭の中にも、なんとなく立ちあらわれたりもするのです。

「個人」ということばが「全体の中のもの」という構図としてしか理解されないとき、本来救われるべき「固有なもの」としての個人は、かえってどこかに消え去ってしまう──そのからくりは(レヴィ=ストロースをこえて)『グラマトロジーについて』という本の核心でした。それはつまり、「主体」ということばの問題視のされ方は結局のところ客体である、というような言い方で、思想史などで長らく試されてきたことです。「個人」ということばではおぼつかなくなり、「固有名詞」ということばでもどうしたらよいかわからなくなる過程を見つめながら、自分は難しいといわれる本のページをパラパラとめくりつつ、「この本を書いたアルジェリア生まれのユダヤ人哲学者は、ルソーがおぼろげにとらえた『理想』とかいうなにかと同じように、言葉がそれ自体で本来の固有さを隠してしまう危うさと対峙しているのだろうか」などと考えるわけです。要するに、それは言語の物質性と、それにまつわる解像度の問題です。

ことわっておかないといけないのは、デリダの立ち位置がもっぱらルソーと正反対に見えるとしても、それは批判のためではなく、むしろ背負わざるを得なかった「危うさ」まで引き受けながら継承しようとしたからだということです。それに、ルソーは「比喩的言語は最初に誕生し、固有の意味は最後に見出される」(『第二論文』)と語りました。つまり「固有なもの」は「最後に訪れる」という、進歩史観のような終末論を信じていたのです。そして、この「最後」ということばを「あいだ」ということばに直すところに、あるいは直すことができないところに、(それはまったく個人的な思いですが)、ルソーとデリダの交錯点があるのだと私は考えます。

『たしかにルソーは比喩から生まれる言語を信じていたけれども、後にはっきりわかるように、やはりなお固有の意味への進歩を信じていたのである。「比喩的言語は最初に誕生すべきものであった」と彼は語っているが、これは次に「固有の意味は最後に見出された」(『試論』)と付け加えるためである。まさに、固有なもののこの終末論にたいしてこそ、われわれは《書くこと》の問いを定立するのである』(『グラマトロジーについて』)

デリダが《書くこと》を最後に見出したその瞬間は、私にはまるで「映画」のワンシーンのように見えます。そして、そこには誠実さがあります。ほとんど気を失いそうなほどの誠実さです。ただ、その誠実さは人を拒むものではなく、静かに寄り添ってくれる温かさを含んでいる、と感じます。それに私は「映画」と言いましたが、おそらくそれは「映画」でなくても良いのです。「カフェ」でも「コーヒー」でも良いのです。それは何かというと、名前が与えられる以前のもの──「何の形も色もなく、特定の色や形になろうといつも待っているもの」(鈴木俊隆)が、言葉のなかに一瞬の姿を見せるということと、その瞬間に気がつくことなのです。このことに対する「信頼」が、デリダの言う《書くこと》だと私は思います。だとすれば、《書くこと》はそれほど悪くはないし、そうであるなら、《読むこと》だって、それほど悪くはないはずなのです。

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