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定休日:金曜、第一木曜

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増量中です!

Posted: 2020.12.27 Category: ブログ Comment: (0)

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コーヒー豆1.5倍増量セールは12/29日まで!
(年内営業も12/29まで)

みなさまのご来店をお待ちしております!!

(無題)

Posted: 2020.12.27 Category: ブログ Comment: (0)

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店主です。


年の瀬、こんなこと考えていました。


かつて、あるとても知的な人に向けて、わたしはずいぶん無邪気に「あなたとわたしとは因縁がある」と言ったことがあります。


そのときあらわれた反応をみて、わたしは普段まったく自分がしないことに----言葉を世間で了解されている風な形ではなく、実に辞書的に使用した自分に----素朴に驚いたのです。(自分が用法を間違えていると思って、「因縁」という語の意味を、あらためて辞書で引いたほどです)。捉えている物事の不確かさと、それが機能する場での意識の低さを、あらためて確認する出来事でした。


わたしが今年お店の運営していく上で、とくに印象深かったのは、あるウイルスのことでもなく、事業体に向けた種々の(そのうちのいくつかはほとんど閉口するような形での)要請でもなく、サービスの制限がもたらす微妙な二律背反の問題でも、今後不確かなものとして残る業態についての予断でもありませんでした。思い出すのは「カフェをはじめてみませんか?」での講師の方の、話の内容の及ぶ領域とその広がり方----そして参加の皆様の「行儀」の程度のことです。


たとえば、わたしはいつも思うのですが、カフェ開業を(あるいは独立ということを)、人生における「自分の存在意義をかけた凄まじい最後の賭け」(モリッシー)だと思っている人は、今も昔も、はたしてどれくらいいるのでしょうか?

そして、それはおそらくまったく好い気な物で、かつてのわたし自身の姿とどこか相似形を描いているに違いないものなのです。


『私は今、ある牢獄の中にいます。どのような牢獄かはよくわからないのですが、でも、ある牢獄の中にいます。だから私は、そこからぬけ出すためのアイデアを見つけなければなりません。自分が行きたいと思う世界をつくりあげなければなりません』(『映画史』ゴダール)


わたしはかつて「牢獄」という言葉を「捕縛」という言葉で捉え直して、学び舎に依頼された寄稿文を仕上げたことがあります。まったく、一気呵成でした。そしてある人から、それ以上の早さで私信のような感想をもらったことを記憶しています。


グッとくる言葉でした。


あの文章の中でわたしが書きたかった「自分の人生でゆいいつ希望だと思っているものが、一番の足枷になっている」というのは、わたしにとって構図的に言って終わるものでもなければ、それこそ永久に何かの形で付き合うしかないようなものでした。そのことに関して、わたしはポール・ヴァレリーを読み返したり、ウィリアム・フォークナーを読み返したりしました。そして、時が経ちました。


『私は自分に、「物語というのは、ひとが自分自身の外へぬけ出るのを助けるものなのだろうか、それとも、自分自身のなかにもどるのを助けるものなのだろうか?」という疑問をなげかけるわけです』(ゴダール)


わたしはその時書いた「時代」を終え、生まれ育った場所をちぎれるようにして離れたあと、目的とされた出来事をたった三日ほどで終えました。


それから7年がたちました。


一人きりただ思索にふけるくらいしかなかったわたしに起こったことは、自分がつけた、いつか外すことになる足枷を首をかしげながら眺めることと、わたしなどとは比せない重い足枷をつけた人々を、死ぬまで歓待し続けるための準備のようでした。


『私には今、映画の世界に二十年間いつづけたために、あるいはまた、私の映画のつくり方のために、自分がむしろ、自分自身から離れてあまり遠くに行き過ぎたと思えます。自分が自分自身の外にいるように思えます。そして私は、「自分が今いる場所」に帰りたいのです』(ゴダール)


そしてそれはいまも続いています。


人はまったく「自分の人生でゆいいつ希望だと思っているものが、一番の足枷になっている」状態を引き摺りながら歩いています。それがどうしてなのか、わたしにはよくわかりません。


本当に、一体、どうしてなのか?


わたしにはよくわかりません。


そして(文字通り)死ぬまでそうしている人たちと、おそらくわたしは「因縁」のような関係で結ばれているのだと思います。


美濃加茂

Posted: 2020.12.25 Category: ブログ Comment: (0)

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御料理あだちさんと、コクウ珈琲さんにおじゃまして来ました。

ずっと考えていたのに想到しなかったことイメージ1

店主です。

ポール・ヴァレリーの『テスト氏』(小林秀雄訳ではない)を読み返して、いつくかのことを考えました。これは実在する人物のものではなく、(それこそボルヘス的な)仮構された人物の評伝ですが、おそろしくリアリティがあるもので、ずいぶん昔に妙な印象があって、ずっと読み返したいと思っていたものです。

実際に読み返してみると、ずっと考えていたのに想到しなかったことがいくつかありました。

本の内容は「テスト氏」という(中年)男性が、「文芸ばかりでなく、ほとんどすべての哲学も。言語にせよ、社会にせよ、認識にせよ、芸術作品にせよ、その他何であるにせよ」(ヴァレリー)、いわゆる「世に出ている」すべての創作物に対して、誰よりも優れた認識を持ったまま「世に出ることなく」死んで行こうとする物語です。それはこういう理由からです。

『どんな大人物にもひとつのあやまちの汚点がしみついている。権威があると見られているどんな精神でも、まず最初に、おのれを人に知らせるという過誤をおかしている。世間からもらう酒手と引換えに、彼は、自分を人眼につかせるために必要な時間を与え、自分を人手に委ねて自分とは無関係な満足をでっちあげることに精神を使い果たすのである。あげくのはては、栄光のためにぶざまに右往左往することを、おのれを独自のものと感ずるよろこびと比すに至るのだ』(ポール・ヴァレリー『テスト氏』)

わたしは東京にいたころ、程度の差こそあれ、こういう種類の人たちとばかりいた気がします。ずっと、一緒にいた気がします。そして、さらに程度の差を問わなければ、これはヴァレリー本人のことでもあると思っています。「文芸ばかりでなく、ほとんどすべての哲学も。言語にせよ、社会にせよ、認識にせよ、芸術作品にせよ、その他何であるにせよ」(ヴァレリー)、認識を極めることを至上とし、だからこそ「何ひとつ打ち明けずに死んでゆく」。そういう人物を、彼がデビュー作(レオナルド・ダ・ヴィンチ論はわたしの中ではデビュー作ではない)で書いたことは、象徴的なことです。文字通り、途中まで、ヴァレリーはそういう人生を歩んでいました。

『つまり、もっとも強力な頭脳、もっとも鋭敏な発明家、思想をもっとも正確に認識する人々とは、人に知られることのない、おのれを出し惜しむ人々、何ひとつ打ち明けずに死んでゆく人々であるはずだ』(『テスト氏』)

しかし、これは本当にそうなのでしょうか。ヴァレリーは少なくとも、この作品の20年後に(中年になり)『若きパルク』を「世に出し」ました。「おのれを独自のものと感ずるよろこび」は、彼にあったのでしょうか。

しかし、こういう問いは不遜だとわたしは思います。「違う」と思います。このことを誰かに言いたくてしょうがないのですが、こういう「認識」は「打ち明けずに死んでゆく」のが正しいのでしょうか。

アダチ クリスマスナイト

Posted: 2020.12.25 Category: ブログ Comment: (0)

アダチ クリスマスナイトイメージ1

12/24は アダチ クリスマスナイト!

初めての試みで、periの松田さんをお迎えし、完全予約制のディナーを開催しました。

みなさまに大変あったかいお声をかけていただき、スタッフ一同素敵な時間を過ごすことが出来ました。

ありがとうございました^_^

また機会があればやりたいな。
そう思います。

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