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いざ広島

Posted: 2022.09.24 Category: ブログ Comment: (0)

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カフェ・アダチの今後の命運を握っているのかもしれない(あるいはそうでもないかもしれない)お仕事のために、広島に行って来ました。

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振り返ってみればとても大変な仕事で、遊んでいる暇などいっさいありませんでした。

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※繰り返しますが、これは仕事です。


甘さと痛みの反芻

Posted: 2022.09.23 Category: ブログ Comment: (0)

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店主です。


ジル・ドゥルーズが自宅アパートから投身自殺をした際、遠く離れた極東の地で、あるフランス映画監督と彼の仕事を比較した人たち(それも複数人)がいたことをよく覚えています。


そのことは、個人的にはあまりにも浮薄で、どちらかというとめまいがしそうな出来事でしたが、わたしがそういう比較があると理解したのは、『差異と反復』著者の死から5年以上たった頃、(結局通わなかった)大学に入って、それからまもなくの頃でしたから、おそらく感想としてはひどく幼稚なものだったでしょう。とてつもなく幼稚なものだったのでしょう。年端も行かない甘い人間が、苦みばしった老練な人たちの、「用意周到且つ紛らわしい」(柄谷行人)ものの言い方など、そのころ理解できていたとはとても思えません。そこには、(わたしの記憶が正しければ)、ミシェル・フーコーは歴史家であり、ジャック・デリダはただの物書き、ジル・ドゥルーズだけが(ハイデッカー亡き後の)唯一の「哲学者」だった。けれども、ドゥルーズはゴダールに負けている。結局、映画というものが、哲学を完成させてしまった(=終わらせてしまった)。そういうふうな言説がありました。「反動的なリヴィジョニズム」(浅田彰)として、そこにはゴダールではなく、むしろ(ジャン)ルノワールを置いた方が良いのではないか、というあたまの混乱を加速させるような言及もありましたが、わたしには結局その意味はよくわかりませんでした。


映画というものが、哲学を完成させてしまった(=終わらせてしまった)のかどうか、そのことはよくわかりません。ずいぶん幼稚だったころに、わたしがゴダールの映画の中でもっとも好んでいた作品のひとつに『右側に気をつけろ』Soigne ta droite (1987)というものがありますが、あの作品の中にあるラジカセの再生ボタンを押して機械装置にものを語らせ、その場にいる人間が人称論を批評するという構造は、紙の上では決して出来ない芸当です。そういう意味で、映画にしかできない哲学というのは、あると思います。しかしこのことは、それ以上なにを言えば良い種類の事柄なのでしょうか? そのしゅの場面が「批評家的に」どれほど優れていても、個人的に、まったく個人的にわたしがあの映画でもっとも好きなところは、そういうところではないということはくちにしておいても良いかもしれません。たとえば、あの映画にあるゴダール本人が出演している場面で、彼がドストエフスキーの小説を読んでなにかを見つけ、相好を崩しているところだとか、そういうものの方がはるかに希望がある気がするのです。(ゴダールはそこで、とても可愛い顔をしています)。これは、まったく、ただの個人の感想でしかありませんが。


映画というものが、哲学を完成させてしまった(=終わらせてしまった)かどうかは、わたしにはよくわかりません。たとえば、ドゥルーズを取り出してきてゴダールと比較すると、そういう言い方がなんとなく成立することはわかります。なんとなく、それはわかるのです。細部における甘さだとか、若干の居心地の悪さまでふくめても、そのことはあまりにもわかりやすすぎると思うくらいです。しかし、フランス人というよりもアルジェリア生まれのユダヤ人である、ただの「物書き」と言って終わられていたデリダを、かりにもしはっきり「哲学者」としてそこに置くとどうでしょうか? もしかしたら(映画との)勝ち負けの結果が(結局)変わらないとしても、ドゥルーズのときとは違う、圧倒的な居心地の悪さがないでしょうか。そういう抽象的な異和にこそ、「哲学」というものの面目が見えないでしょうか? わたしは、そういうふうに思います。その意味では、哲学とは、歴史的には終わってもいなければ、おそらくはじまってすらいないものなのです。


『われわれは哲学というものが(なにであるかはいえなくても)、なにでないのかはいうことができる。哲学は、反省でも、観照でも、コミュニケーションでもない』(ドゥルーズ)


くわえてデリダは、ドゥルーズよりもばかではありませんでした。褒め言葉としての「ばか」ではありませんでした。


もちろんこれは、ただの個人の感想です。あるいは、ただのニュアンスであり、まるきり実際性を欠いた話です。ニュアンスといえば、ニュアンスが結論を永久に先送りさせるシステムというのは、たとえば『感情教育』だったり、あるいは『失われた時を求めて』といった書き物にあらわれているなにかです。そのような事実関係は、マルセル・プルーストのあとに書かれた唯一のフランス語がジャック・デリダの書いたものだった、というような優れた言説が、少しだけ照らしてみせるものでしょう。もしかしたらフランス語というものの特性なのかもしれないこれらは、そういう意味では、ヒュームの読み解きからはじめたドゥルーズを、ひどく英語的であると思わせるものです。あるいは、ハイデッカーの亡霊を色濃く引き継いでいるドゥルーズを、ひどくドイツ語的であると思わせるものです。比較言語学的に話が逸れて行くことが主眼ではありませんが、わたしにはなにか、そういう制約的な締まり方がどこかに見えたりもするのです。


ゴダールが死んだとき、わたしは自分が書いているものが(もともと変ですが)少し変になった気がしました。手元が狂ってしまいました。それこそ「消しゴム」が必要だったのかもしれませんが、わたしは「反動的」というよりも「自作自演」のリヴィジョニズムに絡め取られてしまい、結局いくつかのくわだてがうまく行かなかったのです。あたまをひねり、思案したところで、思い出したのは結局ドストエフスキーの小説を読んでなにかを見つけたときの、彼(ゴダール)の可愛い顔だけでした。彼はそこで、希望を見つけたと言っていました。たしかにそこで、「希望を見つけた」と言っていたのです。


ブレンドコーヒーセミナー

Posted: 2022.09.16 Category: ブログ Comment: (0)

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カフェ・アダチ

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3.酸味に特徴のある豆(11/5)

4.コクに特徴のある豆(11/26)

5.苦味を生かした豆(12/3)

6.完成品飲み比べ & ディスカッション(12/17)


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みなさまのご参加をお待ちしております。^^


死とコーヒー焙煎

Posted: 2022.09.15 Category: ブログ Comment: (0)

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店主です。


「酸味と苦味以外のところで、コーヒー豆の特徴がしっかりとあらわれている。そういうのが良い焙煎なんじゃないの」、という声がありました。


わたしはいつものように、ぽかん、としており、それはたしかにそうかもしれないし、あるいはそうでもないかもしれないし、と思いました。ずいぶん浮遊した感じです。コーヒー焙煎について考えているとき、あるいはコーヒー焙煎について話をしているとき、だいたいいつもそういうところがあるのです。これは永久に変わることがないのかもしれません。わたしは焙煎の話をしたり、あるいは仄聞したりというときにおいて、そのことそのものについてというよりは、どちらかといえばその作業の工程に関してのなにかの部分だったり、その過程ののちに出来上がりをみせてくる商品というものについてのことだったり、そういうものについて、ぼんやりと考えていることが多いのです。あるいは商品だとか、そういう名前の付けられたものがいったいどのように世の中に介在していくのかだとか、俯瞰したところにあるものごとについて、わざわざどいたりずれたりしながらなにかを話しているような気になってくるのです。少なくとも、過去に何度もあったものと同じように、そのときのわたしは間違いなくそういう気分でした。それがいったい何なのかわからなくなってきたところで、「結局この場にいる人たちは、自分もふくめて何が言いたいんだろう? というか、何が言えるんだろう。匹敵するもののないなにかの形合わせみたいなことをしているように思えるし。そもそも、じゃあ焙煎というのは、いったいなにに似ているのだろう?」という問いかけがこころのうちに湧いてきたところで、現実の時間には終わりがありました。


結局こんな言い方になるのでしょうか。わたしにとって焙煎をするというのは、焙煎そのものをするというよりも、焙煎に関する「すべ」を見つけることではないかという感じがしたのです。それは、全体的にここまでくちにしてきたような、微妙な言い方にあらわれているとおりのものです。拵えた苦しさにあらわれているとおりのものです。「なにか」というのが「なにかそのもの」ではなく「なにか」の「すべ」である、というようなものの言い方は、たしか『新ドイツ零年』の映画製作者が、とても巧みにくちにしていたような気がします。彼がどこかの場所で、なにかとても巧みにくちにしていた気がします。それはともかくにしても、わたしは焙煎というのがずっとなにかの気分に似ているような気がしていたことはたしかでした。それは、自分にとってそれほどたえずとなりにあるだとか、(それこそ焙煎と同じように)それほど傍らにあるだとかいったものでもなかったはずなのですが、あるとき「ふと」(といってもこういう振り返り方をしているときにたまたまそこにそういうふうにフォーカスしているだけなのでしょうが)、それが「なにか」がわかったのです。これはまったく、一般則とはかけ離れたものであるということは、くどいくらい断りを入れなくてはならないかも知れません。それはそれこそ気分そのものとして、自分は焙煎をしているときの気分が、マルセル・プルーストの小説を読んでいるときの気分にそっくりじゃないか!、ということに気がついたのです。


それは(まったくもって個人的に)ただそっくりだとかいうレベルのものではありませんでした。たしか、なのですが、(これは本当にたしかなのですが)わたしは昔『素描』という大枠のタイトルがつけられた連作の随想集で、書いているものに向けて、とある(とても洞察の鋭い)人からマルセル・プルーストの書いたものとの類似を指摘されたことがあったのです。実際、あのときは焙煎をしていたような気がしました。わたしはあのとき、新聞社から依頼があり、ある連作めいた随想を執筆した、というのではなかったと思います。あのときわたしはたぶん、文章を書いていたのではなく、焙煎をしていたのです。そういう意味ではかなり私的なものだったとしても、尊敬する某氏の指摘はあまりにもまっとうなものだったといえるでしょう。コーヒー焙煎をしているときの気分は、わたしにとってほとんど睡眠に近い何かです。そういうふうに――というか、とてもそう思います。マルセル・プルーストの小説を読んでいる感覚に近いのです。まったく個人の感想ですが、コーヒー焙煎は『失われた時を求めて』を読んでいるときに近いのです。わたしは焙煎のかたわら実際にプルーストを読んでいることもあり、そしてその行為は、完璧にそのときの気分と合致しているものです。それはごく奇妙なものです。時間が過ぎているのかもよくわかりません。そのまま意識をうしなって、永久に起きられないといった感覚に襲われることもあります。つまりほとんど死というものと同じですから、焙煎中というのは、いつも死と隣あわせの出来事なのかもしれません。あるいは、もはや死んでいるのかもしれません。焙煎は、どこか死に近い出来事です。コーヒー生豆は、種実としてはじめから死んでいます。しかし、ひとは(わたしにはそれはよくわからないことですが)それを非常に生き生きとしたことばで表現したりなどします。しかも、死んでいるものをさらに焼き殺すという過程においてだとか、あるいはその出来事を事後にたしかめるような過程において、生き生きとことばをくちにしているのです。このことは、きわめて奇妙な事態ではないでしょうか。焙煎は死と隣あわせの出来事で、そこではもはや焼き手も死んでいるのに、当人はそのことから目を逸らしているということも大いにありうるのです。実際マルセル・プルーストの小説を読みながら焙煎をしていると、あたかも死体が睡眠をしているかのような気分になります。


このことは、何の喩えでもいえません。意味が伝わらなくても、こういう以外にいえないのです。プルーストの小説にははじまりも終わりもありません。焙煎にも、はじまりも終わりも感じません。拙いような、規則的でも不規則的でもあるようななにかの継続の一端に、あるいは断絶の一端に手をかざし続けているような、ひどくばかのような気分があります。しかも高潔さもあり、同時にひどく眠いのです。はじまりが終わりでありながら、終わりがはじまりでもあるというと、それは事前でもあり、事後でもある。あるいは事前でもなければ事後でもない、というような感じにならないでしょうか? 事前(出自、根拠)というものが何なかはわたしにはよくわかりませんが、少なくとも「事後」ではないというのは、個人的には少しだけ救いがあるものです。事後というのは、どこかいやらしいものです。扇情的な意味でなく、どこかいかがわしいものです。この感じはどういえばいいのでしょうか? それは、つまり、死という感じです。


わたしは焙煎をしているときにはやはりどこか死んでいる感じがあり、同時にそれはうそだという感じもあるので、出自だとか根拠だとか、あるいは少なくとも事後だとかそういうものとはぼんやりとした感じで離れていられるところがあります。ひどく無責任に思えるこれらは、個人的には、それとは真逆の意味のインテグリティということばによって断りを入れながら続けると、もう少しだけ輪郭があらわれてくるものです。インテグリティ integrity (誠実さ)という語の語源は、いうまでもなくギリシア語の integritas から来ていますが、それは本来、「全体」と「ひとつ」というふたつのものが合わさった意味の言葉です。わたしはかならずしも歴史言語学的な意味にとどまらないかたちで、integrity(高潔さ)というものは、どこか無責任な integritas さ(両義性)と関わっていると思っています。全体でありながらひとつでもあり、事前でもなければ事後でもなく、ある意味、生でもなければ死でもない。その行為は、やはり、そういうふうにしかいえないようななにかなのです。


わたしとって、「焙煎」はそういうものです。ある意味「コーヒー」も、そういうものです。きわめてなんとなくですが、そういうふうに思うものです。


コーヒースクール第三期終了

Posted: 2022.09.10 Category: ブログ Comment: (0)

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コーヒースクール第三期


本日を持って全講座終了となりました。


参加のみなさまの一生懸命で、じっくり構えた眼差しがとても印象的な時間でした。


年齢や性別、境遇をこえて、ゆるやかな目的ひとつに絶妙な人数のひとたちが絶妙な長さの講義で同じ時間を共有できるのは、とても得難いものに感じます。


たくさんの方の協力を受けて終わりましたが、とくにゲストで講師サポートをしていただいた珈香(coca)さんに、謝意を述べたいと思います。


関係者各位、ありがとうございました。


ふたたびみなさんが再会されたり、店主個人としても実店舗を持たれた場所で再会などできればこの上ないです。


四期生の募集は来年(2023年)となりますが、より良いものにして行きたいと考えておりますので、次回コーヒースクールもまたよろしくお願いします。


カフェ・アダチ 店主


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