それはいつごろのことだったか、おそらく此の頃だとかはといってはいいくらいのタイミングだったと思うのですが、コーヒーに関するややこしい資料の大量の読み込みをしていたことがありました。そして予想はしていたのですが、途中でばかばかしくなって、すべて放り出してしまいました。それは物事に正確に反応してしまう性分がゆえの資料性の粗さへ向けた苦笑いとかでは全くなくて、きわめて非数値的・非進歩的なやり取り(レヴィ=ストロース的に言えば「未開の思考」=象徴や感覚を媒介とした高度な伝達のニュアンス)が、紙の上でたえず反復していることを思わずにいられなかったからです。つまり、それは誤読です。コーヒーのややこしい資料だとかいう程度の欠片から自分で見つけてしまう、自分勝手な誤読です。何かが進歩している、あるいは積層という視点からの直線的進歩史観はここのあたりの配慮があまりないのですが、自分は本来それを印象で言うことにも、あまり納得感がありません。一瞬で話が逸れてしまいましたが、ここは本当に微妙なところです。正確さ、という問題が関わっているからでしょうか。あるいは、誤読、という問題が関わっているからでしょうか。
しかし、(というか)、私は思うのですが、「文字を読む」ことから生まれる創造性はいつもアレゴリーであり、文字文化を発展させてきたのは、(聖書解釈の歴史を引き合いに出すまでもなく)、「誤読」です。ダンテの神曲も聖書の誤読であって、つまりイタリア語はラテン語の誤読からはじまっているのです。リンガフランカとしてのラテン語は紀元後数世紀で自然言語としての使用が急減し、民衆は俗ラテン語からのロマンス諸語のニュアンスの中から、自分たちのことばを培っていきました。それがたんに、現在フランス語だとかスペイン語だとか呼ばれているだけなのです。だから、それは、学問ですらありません。
私が思うに、「問題」はアルゴリズムではなく、やはりアレゴリーです。二十世紀の言語学には、この視点が決定的に欠けている。。欠けているというのがおかしければ、配慮がないような気がします。ノーベル賞を取っているような作家に共通しているのは、自国語を外国語にする能力です。もちろん、これはいわゆる外国語ではなく、バフチンの言うような「異化」能力のことです。そして徹頭徹尾、綺麗ではない。これは、「集積体」という概念からは決して出てこないものです。「アーカイブ」だとかいう概念からは決して出てこないものです。むしろ、孤独とか、誤りからしか出てこない。ここが、あるしゅの人間性だとかさみしさ(坂口安吾)の根幹なのだと私は思います。
つまるところ、自分がコーヒーに(いまだに本当にかろうじて)関わりを持っているのも、このあたりの欠損性や、「綺麗ではない」とでもいうべきなにかに理由があるからだという気がするわけです。コーヒーは満たされるものというよりも、どこかこの「絶対の孤絶」や、あるいは欠損という概念との照応に、その正体があるような気がします。しかし、同じくくらいそれもどこか違うという気もします。
