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コーヒーの理想

Posted: 2024.03.14 Category: ブログ

コーヒーの理想イメージ1

店主です。

就寝時のことでした。

ここしばらく気の抜けたサイダーのような日々を過ごしていましたが、知らないうちにあらわれた炭酸の弾けるような出来事を思い出して、ハッとして少し目が覚めてしまったのです。そうこうしていたら鼻水が止まらなくなってしまって、ティッシュペーパーを丸めて両方の鼻に突っ込んでいたら今度は息ができなくなり、別の意味で目が覚めてしまいます。それでもわずかに、涙目で鼻水を垂らしているあいだに(なぜか)思い出したことがありました。あるイスラエルの歴史学者が、1762年に刊行され、ジュネーブの広場で公開的に燃焼されたあるフランス語の書物について、とても面白いことをくちにしていたのです。薄ぼんやりとした意識のなか、そのことを思い出しました。それはこういうものです。

「この本(『エミール』)は、18世紀以降の人類の聖書のようなものである」。『エミール』という著作に関して、わたしの記憶が正しければ、これと同じようなことばは『読むことのアレゴリー』という本の中でもなにかがくちにされていた気がします。あのきわだった魅力のある本の中にも、なにか違う書き方で、少しだけ書いてあった気がします。そのことに関して、わたし自身もたしか、どこかになにかを書いた記憶もあります。しかし『読むことのアレゴリー』という本の著者は、本来ルソーについて書くことに関して、非常に大きなためらいをみせていました。そのためらいは、勘違いという可能性もおおいにありますが、自分にはきついほどによくわかるものです。それは理想についてなにかをくちにすることだとか、希望についてなにかをくちにすることだとかにいくぶんか関わっています。『エミール』の著者が(あの口角泡を飛ばすようなエクリチュールで)くちにしていたのは、理想とか希望とかがもっとも大切なものであり、人々は自分が思うよう生きなければならない、というものでした。この考え方は強力なものです。この考え方が「18世紀以降、聖書のように」(ハラリ)どれほど人々の生き方を固定化し、分断してきたかは、もはや誰にも正確な構図など描き出しようがないと思えるほどです。これは本当にものすごいことなのです。。このことで、人々は資本性経済というシステムを作ったり、大量虐殺の科学兵器を作ったり、社長が愛人を作ったり、詐欺師がNPO法人を作ったりしたのです。しかし、そういうものとは別の観点で、わたしはかつてこのあたりのことについて、たとえば純粋理性批判だとか、テクノロジーだとか(いう概念)から、ものごとを考えてみようとしたことがありました。結局それはコーヒーのしょぼい抽出器具に向けた当て擦りで終わってしまって、ほっぺたが赤くなってしまった記憶ですが。。しかし、わたしが物事を考えるときにとりわけ参照しているあるフランス人の映画作家は、希望だとか理想だとかいうものの見方や考え方はたんに歴史的な段階を経てあらわれてきたものであることを、繰り返し冷静に説いています。その姿はかつてアテナイの広場で、(ジュネーブの広場で燃焼された書物の反対方向からの同じような意味で)、お湯を飲むように毒を飲まされて死んでしまったある古い哲学者の姿に重なって見えてます。それらの姿には、共通した低いつぶやきのような姿、あるいは背中の見せる姿があります、それはつまり、人は人生で自分のしたいことをするのではなく、出来ることややるべきことをするのだというように。

少なくとも、「あの政治的に混乱した」「パラノイア的な仕草の」(ド・マン)『エミール』の著者の登場するまで、ある特定の人間はともかくとして、市井のひとびとは自分に課せられた役割、自分が社会に果たす役割をこなしていただけでした。人々というのは、そういうものでした。それは決して(泣きながら)「あたしの感情はどうなるんですかっ!」などということを言うものではなかったし、くちにしたところでそれがなにかだったということもありませんでした。しかし『サピエンス全史』の著者が言うように、これらのなにかは一度あわられるともはやそれ以前のことをそのファクターを外して見ることができないほど強力なものとして機能してしまったのです。ただ、(わたしは思うのですが)、人がもし本来的に希望だとか理想だとかを求めて生きるのであれば、ソクラテスはああいうふうに死ななかったのではないでしょうか? たとえば彼が(毒をあおってでも)本を出さなかった理由について、刮目するような研ぎ澄まされた知見を披瀝したことは、それが当人にとって理想であるとかないとかとは別の、人間というものに対する深く裏打ちされた洞察からの帰結にみえます。あるいは、わたしはこう思うのです。人々が希望だとか理想だとかのみを求めて生きているのであれば、コーヒーなどという飲み物は、これほど嗜好品飲料として広く世界に飲まれたのでしょうか? ルソー以降、市井にはなにか美味しいものでもくちにしたかのように、理想や希望を語る「薄い人々」(プルースト)の姿がありました。しかしそれらの一方的な主張は、(ポール・ド・マンが指摘したように)、集団煽動の作用(政治性)や、あるしゅのパラノイアに起因しています。そしてなにかしか容認できない、ひとつの立場以外に想像ができない物事のあり方・あらわれ方というのは、とても危険なことなのです。

『これ、あまり言いたくないことだけれど、コーヒーという飲み物は人間にとって本当に美味しい飲み物なのか、どっかで痩せ我慢をして美味しいと思っている奴もいるだろうって思ってます』(大坊勝治氏)

こういうことばには、なにかがあります。真実のなにかがあります。。ソクラテスが飲んだなにかです。わたしはたまたま「コーヒー」というもののことについて、考えたり(考えもしなかったり)していますが、それはただそのことだけにとどまるものではなく、ソクラテスがアテナイの広場であおって死んだものについて考えることでもあるのです。ただの気のせいかもしれませんが、両鼻に丸めたティッシュペーパーを突っ込んだまま、真夜中にひとりで考えたのはそんなことです。

あんこカフェさん

Posted: 2024.03.09 Category: ブログ

岐阜県関市本町にある、あんこカフェさんのお弁当をテイクアウトしました🍱

ローカロリーでも満足できるように工夫されています✨

糀(こうじ)仕込みで腸内環境が良くなるように考えて作っているので、ダイエット中の方や減量中、健康に気を使うシニアの方、ヘルシー志向の方にピッタリなテイクアウト弁当です😋



そんなあんこカフェさんに講師を務めていただく【カフェをはじめてみませんか?】
は4/15(月)13:00-14:30です❗️

カフェを始めようと思ったきっかけ、カフェ開業までの道のりやこれからカフェを開業する方へ向けたメッセージなどをお話しいていただきます。

開業に興味がある方、あんこカフェさんのお話を聞きたい方におすすめです😉

まだまだ募集中です☺️
公式LINE、またはお電話(0575-23-0539)
にてお待ちしております♪

春の限定メニュー

Posted: 2024.03.06 Category: ブログ

3月より、期間限定のブレンドコーヒーとアレンジコーヒーが登場します❗️

【スプリングブレンド】
春に咲く花のようなフローラルな香味をめざしました🌸
華やかで口当たりもよく、飲み心地の良いコーヒーです☕️



【ストロベリーチョコオーレ】
カフェオレに生クリームをたっぷりのせ、ストロベリーソースと、苺ミルクチョコをトッピングしました🍓



ぜひお試しください☺️

退屈な珈琲

Posted: 2024.02.29 Category: ブログ

退屈な珈琲イメージ1

店主です。

珈琲について、あるいは珈琲に関して、もっともほかのなにかに加担してうそをついている場合もあるかと思いますが、そういうものでなりわいを立てていくことについて話したりだとか、そういうことについて考えたりする時間が、隣の県庁所在地の街でありました。わたしはそのころちかいうちに訪れるおでこの強打についてのことなどもなにもわかっていなくて、額を切ることと縁を切ることとだったらどっちが難しいのだろうだとか、まったくわけのわからない比較などをしながらほんの少しの日数を過ごすことになるまでの出来事を過ごしました。

『映画の仕事は、きわめて単調な仕事です。そしてそのあまりの単調さのために、人はあれこれと技巧を持ち込んだり、多くの人を呼び集めたりすることによって、その単調さを隠してしまおうとします。こうした人生はまさに、想像力の貧困と欠如とによって支えられた、完全ないつわりの人生とでも言うべきものです』

『軽蔑』の映画作家は、「労働」について、このように語ります。しかし、これは「珈琲」もそうだという気がしてしまいました。。実際、上の文章でつねひごろわたしがうんざりするほど参照している映画作家が「映画」とくちにした上の箇所を「珈琲」という言葉に置きかえて読んでみてください。これ以上なにを言えばいいのかというくらい、「珈琲」と「労働」についてのほとんどの事柄が、上記のたったの三行にふくまれています。

そうは見えないでしょうか? たしかにこういった出来事は、目の前に多くの場面で存在しています。わたしはいくらか形を変えたりする同じようなこと、こういった出来事をだいたいいつも目の前にしているのですが、正直に言えばどんな感想を持てば良いのかがわかりません。自分がどんな感想を持っているのかも、よくわかりません。くだんの映画監督は、自身のこのことに関して、このような感想を添えています。 

『こうした現象は、きわめて不可解な現象です。でも私は、こうした現象を見ていても退屈はしません。退屈なのは、そうした人生をおくるということです』

わたしは(かろうじて)コーヒーを仕事にしているような人間ですが、この仕事で自分が充実しているような心情になったことは、あまりなかったような気がします。盛り上がりも盛り下がりも(もしかしたら、多少などは、ほんの少しなどはあったかもしれないとは思うけれども)これといってなかったような気持ちです。それは自分もある程度までは「退屈」な人生を送っているからかもしれないし、あるいはそうではないからかもしれません。まわりを見ても、退屈に耐えられている人というのは、いるのかいないのかはよくわかりません。しかし、退屈に耐えられない人というのはいます。

そうです。それは、かならずいます。。珈琲を扱う仕事をする人で、退屈に耐えられないという人は、確実に存在しています。そこからだいたい、人はおかしくなります。くたびれて気力がおとろえ、仕事のやり方もふくめて、おかしくなっていきます。わたしが思うに、ある意味で強固なのは、もっともふてぶてしく泰然自若としているのはおそらく、「退屈な珈琲」に耐えられる人なのです。

と、いう感じでさらりといつものように終わろうとしていたところで、自分は最近完全に忘却していたある出来事のこと、「想像力の貧困と欠如とによって支えられた、完全ないつわりの人生とでも言うべきもの」について、自分の存在が退屈すぎて「退屈な珈琲」にすら想到しないという人のパターンについて考えるよりほかない出来事に突き当たり、ふたたびいつぞやのように顔面を思い切り机に突っ伏しておでこを強打してしまいました。涙目で帰る寸前のスタッフにくだを巻いてしまったほどです。気がつけば2月が終わります。。

バーテンダーと珈琲

Posted: 2024.02.12 Category: ブログ

バーテンダーと珈琲イメージ1

店主です。

元ノートコーヒーの舟戸貴織さんにすすめられて、『バーテンダー』を読んでいました。全編を通じて示唆に富んだ内容のものでしたが、その中でとくに印象に残った場面があります。
南浩一氏によれば、良いバーテンダーになる条件というのは、「誰かの言うことを最後まで聞くか、誰の言うことも最後まで聞かないか」だそうです。しかし、これはまさにコーヒーの仕事でも同じではないでしょうか? ここには、人が人から受け取るものについての、おそろしい含蓄があります。あいだがないのです。一見すると、誰かの言うことを最後まで聞くというのは簡単にも思えるのですが、このことはきわめて難しいことです。必ずどこかで疲れてしまったりするし、面倒くさくなってしまったりするし、自分が追いかけていた、あるいは自分が学んでいた誰かのことを、空気を吸うようにして裏切ってしまいます。あるいは、裏切りとまではいかなくても、結果的には言うことを聞かなくなってしまいます。聞けなくなってしまう、という方があっているかもしれません。全体を理解することもなく、「部分的ななにかのつまみ食い」(田口護氏)に陥ってしまうこともしばしばです。

しかし、それ以上に難しいのは、誰の言うことも最後まで聞かないということではないでしょうか。誰の言うことも聞かずにやるというようなタイプが、いつのまにか本人も気が付かないうちに、誰かの言うことの通りになってしまうというのはないでしょうか? 誰かの言うことを永遠に聞き続けない、というのは、本当にきついことなのです。それはほとんど不可能にちかいことで。。わたしは、このことについて、もう一度どこかで物事の意味を考えてみたいと思っていました。こういう自己欺瞞は手におえないのです。本人が自分をごまかしつづけることができるから、手におえないのです。

自己欺瞞といえばわたしはバーテンダーのことを勝手にコーヒーに結びつくように話をしてしまいましたが、おわかりのように注意が必要なのは、コーヒーの世界には「バーテンダー」に該当することばがないということです。シェイカー等でカクテルの調合をする人物、カウンター席が設置された酒場で、カクテル・ビール・ワインなどのアルコール飲料を提供し、飲酒する客をもてなす人物を指すようなことばが、コーヒーにはないのです。無理やり言おうとすれば、バリスタだとか、コーヒーマンだとか、(語源のオブスキュアな感覚を受け入れたとて)、うそ寒いなにかを感じさせるあのようなことばたちしかないのです。このあまりにうそ寒いものは、いったい何なのでしょうか? このことを言おうとするときに感じる、凍えるしかないようなおそろしく寒い感じのことは。。わたしは、このことについてもいくつか考えてしまいます。それはつまり、コーヒーというものの属人性のなさについてのことかもしれないし、コーヒーにある「加工」という概念に対しての、ある絶対的な不可能性についてのことかもしれません。それかコーヒーというものが人間にしてきた、あるいは人間というものがコーヒーにしてきた悪魔的な物事に対しての、無意識の斥力のことかもしれないし。。

このようなことをいうためにはもう少し時間をかけてゆっくりとなにかを読んだり書いたりしなければいけないかもしれないのですが、いまの自分の忙しさでは結局なにもいえないままです。

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